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現存形を検討すると東恩納寛量師範で言われる「中国拳法将来伝説」は殆どあり得ない事が判る。実質上東恩納師範が伝えたのは古伝那覇手の断片である事は資料的な立場で考証できる。実際的にそこに中国拳法の影響は殆どないのである。では何故に師範は「中国拳法伝来」を称えたのか。これは湖城家との微妙な関係を考えなければならない事項ではないかと思われるのである。湖城流は古伝拳法は公開せず、一族のみで明治以降も継承したのである。大正年間に船越空手に不満をもった三木二三郎が沖縄に調査にきて、各師範家を巡って伝を受けたが、唯一湖城家のみは入門も見学も断られている。それほどの祕傳拳法であり、それを青年期に新垣師範を通じて伝を受けた東恩納師範が門人を募って伝授して行く立場において、湖城家拳法としてではなく、便宜上「中国拳法」伝として道場を開いたのではないかと考えられのである。
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