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●[『秘伝』平成16年2月号]

制敵不殺の神器、日本伝十手器醸成の秘密

大予言
武道と云うものは身を守る為に生まれたが、自己の生存の為に他を殺戮して生き延びると云う事の中には大いなる矛盾が潜んでいるのかも知れなかった。それは相手が罪ある悪人で仮令あるとしても、他を刺殺することは何とも忍びなく、また必ず災いが訪れる。なぜならそれはそこに人の恨みを残すからであり、恨みが恨みを呼び、恨み返しがまた大いなる恨み返しを生む事になり、それを無限に繰り返し世はますます混沌とした迷妄と無明の血海の中に埋没して行くことになる。
かくした六道輪廻循環の輪を断ち切る法、それは恨みを捨てる事によってのみ実現し、しかして初めて衆生が救われる。是は永遠の真理也……かくの如く断言した哲人武芸者が二千数百年前の天竺に一人いた。今日釈迦牟尼仏の名で知られる拳法名人であるが、彼の言葉はテロの応酬を繰り返す現代の乱れきったる世界情勢をも完全に透察し、しかして以後の人類の本来進むべき選択肢と道までをも示唆した真に見事なる大予言ではないか(この予言者の名の一部を少し覚えておいて頂きたい)。
しかし言われても言われても人は体験せずして容易に覚れるものではないのかも知れなかった。二千年経って日本国の政情が乱れ、無明なる殺戮を繰り返す長い戦国期に突入し、暗黒と混迷の時代が何百年と続く事となる。
天下取りの野望に燃えた諸大名たちが争い、無数の戦闘が繰り返されて、そこで日本伝武芸、その技術が改めて徹底的に研究され大いに発達して行くこととなる。
かくした時代に培われたかつての戦場武芸の本質は決して奇麗事の世界であるはずがなく、真に無残なる血に塗れた殺人法でもあった。しかしながら仮令それが武術と云うものの本質であり、弱肉強食が世の理であるとしても、その奥にある精神世界を求道する兵法家がそろそろ出てくる時期であるのかも知れなかった。
武術とは人を殺戮するもの……しかし決してそればかりではなく、その奥に人を寧ろ生かす光明の道はないものなのか。弱肉強食は鳥獣世界の理であり、人には人としての自他共栄の聖なる道徳があっても良いではないか。
勿論全ての武人がかくした深い精神世界に入って来れたわけではない、殆どの武芸者は単なる戦場豪傑に止まっただろう。しかし各地の極一部の先達の中にかくした精神世界を武術技術の中に溶け込ませ、単なる殺人法を超えた万代万世を貫く至高の身心錬磨の真道を醸成する者が出始めていた。それは流儀の名乗りと秘伝書作成とに歩並を揃え、如何にもそれこそが日本が世界に誇る驚異の世界的文化遺産、流儀武術の発祥であったと言えるであろう。
十六世紀に入ると美作一之瀬城主、竹内久盛は敵を無傷に捕らえる捕手法を体系化し、また棒を用いて敵を無傷に抑える法や剣術をもっても捕手に結びつける高度な捕手剣術の世界を醸成しつつあった。またインテリ武芸者、上泉伊勢守は剣術の最高奥義は無刀之位だとして門人の石舟斎に無刀捕り技法の工夫を促したと云う。
そして竹内氏と同郷、作州の兵法古家の当主、宮本無二斎は剣の達人でもあったが、特殊な十手器を発明して、それを太刀術と併用することにより、剣対剣の攻防のさなか、敵の刀を奪い制する独特の技術を編んでいた。それこそが、後の泰平天国江戸時代を統制し、その治安を維持する為の基盤となる、捕方たちが罪人逮捕に用いた代表的捕物道具、「十手」とその技術の嚆矢とも言えるものであったのではないかと思われるのである(その意味から考えると宮本無二との名前は天竺聖者、釈迦ムニ佛と何となく重なってくる気がしてくるではないか。無二の先代は「武仁」と號し、正に「武は仁術」との意味になる。また無二斎の孫弟子に荒木氏がおり、無人斎を號したが、「無人」とは「人が無い」であり「人が厶い」、つまり「仏」そのものを現している。斎とは「ひとし」と読み、これは要するに「仏に等しい」と言っているわけである。そして釈迦とは「社神」との意味なりとの論もあり、これも「宮本」の姓に重なってくる……!)。

捕物十手術の始祖
ある時期まで武蔵の養父、宮本無二斎の十手術とは江戸期の捕方たちが使う十手術と同列の様に捉えられていた。しかし新発見の史料が幾つか出て、次第に実はそれらとはかなり異質の道具を用いた独特の武器と武術であった事が判明し、その事自体は筆者自身がかなり太鼓を叩き、今までかなり考証、解説してきた経緯がある。
しかしながら確かに武器の形態や戦闘スタイルは江戸期十手術とはかなり異質ではあったが、不殺武術を目指した、目的、理念としての本質には共通する点があるのではないかとも思うのである。それを考えると無二斎の十手術とは正に江戸捕物十手術の嚆矢となった技術伝なのではなかったのだろうか。嫡子の武蔵は天下の剣豪として無数の血闘を繰り返し、養父の十手剣術は確かに一刀剣術に倍する利、甚だしきとなしながらも、腰間常用の脇差を用いた二刀兵法を主体として活躍したが、江戸期の治安の為に本当に必要なのは古典的な無二斎十手剣術の方であったのかも知れなかった。
無二斎の精神を継承した後の武芸者たちはより効率的に敵の刀の攻撃を防ぎ、殺人剣を奪い取る江戸期の捕物十手の形態を工夫してその術を編んだのではなかったのだろうか。と云う事は捕物十手術とは無二斎十手術を源脈として江戸期において醸成、完成された神武不殺の至高の武術ではないかと定義する事が出来るのであり、無二斎はその意味では正に日本伝捕物十手術の始祖と定義出来る存在なのではなかろうか。私案ではあるが、無二斎を「日下開山十手術大明神」と呼ばせて頂きたい。

否定の否定
無二斎十手は江戸期捕物十手とは全く異質也と考証したのは筆者であるが、また時を経て無二斎こそが捕物十手術の始祖也と解説するのは大いなる矛盾ではあるが、それこそが真に偉大なる歴史綺譚であろうかとも思うのである。
「いや、捕物十手とは道具も違うし、そして何よりも戦闘スタイルが全く違うではないか」との非難と反論があるやも知れぬ。無二斎十手は殺傷するための槍穂を備え、安全性と携帯の為にも折り畳めるスタイルを工夫した事は確かに少し戦国風ではあるとは思うが、この点は機能的に江戸期において改良されたと解釈される。そして戦闘スタイルと云う点において、それは江戸の捕物者の主体が同心のみならず、庶民的な岡っ引きなどの無帯刀者が、多く治安の仕事にあったという事実から多少の変化せざるを得なかったと観察されるのである。しかしながら侍たちの刀遣いに対して十手一丁で戦って行くスタイルは現代の胡乱な時代考証しかなさぬ時代劇の中のみの話であり、本当に治安維持を職業とした同心を含めた十手者たちは真剣を振り回す侍に対して短兵武器である十手のみを片手に向かって行くなどと云う無謀な事を常になしていたわけではない。ただ無力な敵に対して必要以上の重装備で向かうことも決して潔しとはしなかったであろうと云う事だと思うのである。
それは敵を徒に刺激する事に過ぎず、常に必要最小限の装備で敵の氣を制するのが捕物の極意なのである。一小貧国に強力殺人重装備を抱えて立ち向かうのは正に大国の傲慢であり、後々に必ず禍根を残すことになる。それは正に小鶏を割くに牛刀を振るうが如しではないか。加えて国連決議書(ルビ・おかみのおすみつき)交付以前の暴走は言語道断である!
それはともかく、勿論敵が強力であればその強さに応じて自らも転化する。江戸期の本式の十手術流儀は様々な変形十手器[長十手や鎖十手]などを工夫し、奇想天外なる戦闘技術も編み出した。実際現存する十手術の技術を見ても、一角流や柳生流(江戸捕方十手扱様之事)などでは最初は十手一丁で戦っても敵が強力とわかれば鉄扇や手棒を併用し、正に宮本家二刀兵法と見紛うが如くの両手左右遣いをもって敵を制し、捕らえるのである。銭形平次も強力侍や多人数に対する時は二丁十手を用いて戦うではないか。そしてその術理は正に宮本家二刀兵法そのものなのであり、その意味では無二斎兵法は滅びた様で実は捕物十手術の中に脈々と受け継がれており、正に「兵法逝去して絶えず」である。
そして実際宮本家二刀術と二丁十手術との術理の一致は単なる偶然の一致ではないと筆者は考える。明神下の銭形平次の居場所には嘗ては鉄人十手流の開祖、青木鉄人の道場が開かれ、高度な二刀十手の技術を伝えていたが、銭形平次自体が架空の人物であるのでこれは関係ないが、築州で伝承された一角流十手術には正に同地に骨を埋めた宮本無二斎の兵法の息吹と伝脈が感じられる。実際同流の伝書の中には無二斎十手や、そこから工夫されたマロホシ十手までの絵図が描かれおり、両者の深い関係を示唆しているのである。二丁の短兵器を以て戦って行く同流の技術は武蔵二刀剣法の古典技術を錬磨、継承する立場の人間として、正に同質の術理であると判定するものである。

琉球釵術との関係
無二斎十手を原形として、それが江戸捕物十手に転化したかも知れない云う事、その過程を僅かな史料と実技から推定してみたが、江戸期十手術の奥に内蔵された二丁十手術の実技を見ると、日本国の南端王朝に今も伝わる妖しいある古武術のイメージが重なってはきやしないだろうか。
いかりもしかりであり、その様な特殊な十手遣いは琉球国伝釵術遣いと余りにも酷似している。実際琉球釵の形状は日本の十手よりも無二斎十手に似ていると言える。
しかしやはり釵術は釵術で琉球国において独自の発達をなし、同形武器を左右両手に携えて巧みに振るう独特の二丁釵術の妙技を完成させているのである。同国で多くの古典独演型文化を形成し、それを通じて真に巧妙なるテクニックを現世に伝えているが、その根本にあるのは実は宮本兵法の極意とも言える「十字留め」の技術であり、これは日本伝二丁十手とも共通しているのだと、それぞれの実技を学んで来た筆者の立場として指摘して置きたいのである。しかし、と言うことは琉球釵術と無二斎十手との間には何かしらの繋がりがあったのだろうか。

琉球釵の歴史
その関係は一般には認められていない。
寧ろ琉球釵とは中国武術からの流入と転化に過ぎないとされるのが一般論だろう。しかしそれでは中華に琉球釵術と同種のものがあるのかと云うと近代的な工夫はともかく、古から琉球釵と同種の実技があったと云う文証は何もないのである。古い時期の中華の釵が各所に残っていると云う説もあるが、その本当の形状や年代監査、中華での製作の真相などは未だ精密な考証されたことなく、実際の所よく分からない事が多いのである。
そして中華釵と琉球釵では本質的な差異があるとも言える。
そもそも中華釵と言われるのものは琉球釵よりも長大なものが多く、一丁遣いを基調とし、また実際構造も何方かと言えば鍔(鉤)の部分がS字型となり、所謂卍釵と言われる形態が多いと云う事が違っており、これは技法理念的な立場からは重要なポイントなのである。
と云うのは卍釵の方が鍔に護拳の要素があり、また敵攻撃を受ける範囲も広がって戦闘的であるとも言えるが、琉球釵は両釵を使って敵の武器を挟んで制する所に妙味があり、不殺技術を基本とした無二斎十手の理念と合致するのは正に琉球釵の方なのである。
中華の卍釵の原形は同地古伝の独特の短刀に原形があると言われ、確かに同様の護拳鍔が付いた短刀が多く現存している。短刀が基盤になり、鍔に護拳の意味合いがあるので、当然鍔は縦遣い(護拳鍔部分を下にして打ち込む法)になるが,琉球釵は鍔(鉤)を横遣いする所が違っているのである。つまり類似の形態とはいえ中華釵は短刀を原形としているために鍔を縦遣いにして切り込むと云う観念があるとという事である。
この原形をそのまま残した短刀武術が福建には現存しており、福建鶴拳系などで伝えられる双刀術などにその古典形態を窺う事が出来る。
それはともかく、この鍔(鉤)の縦横の遣いの差異は重要な部位である。即ち琉球釵が鉤を横遣いすると云う事は敵を打ちつけて殺傷する云う意味合いよりも敵を制し抑える技術を本質としているのだと考えられる。
そして琉球釵の独特の遣いとして釵の鉤に指を引っかけ前後を巧みに持ち替えて陰陽裏表に転化しながら戦う巧妙な技術がある。これは武術理合の立場で考えると短兵である釵を何故により短くして戦うのかと云う疑点が生ずるかと思うが、これこそが正に捕手武器術として道具と体とを一如として戦う琉球釵の独特の技術であると言えるのである。つまり順手持ちの両手釵で敵攻撃を捌き受け制しながら入り身をなし、間合いを詰めた後は釵を逆手に持ち替えて釵を持ったまま敵武器と体を掴んで制すると言う真に高度なる捕手技術表現なのである。日本柔術は十手を用いて入り身した後は十手を捨てて取り押さえると云う、所謂「捨」の技術と心が工夫されたが琉球釵は武器を持ち返して捕手と武器術を併用するという、よりスマートにして巧妙な技術を完成させたわけである。しかしこの様な高度な技術を内蔵する琉球釵術であるが、同武術が中華伝でないのだとするとその技術的源泉を何処に求めればよいのだろう?
戦国末のド田舎の兵法古家で育まれた独特の不殺武術が本土にて捕物十手術として発達し、琉球王朝にては二丁釵術として花開いたと云う事であるのだろうか。
しかし宮本家と琉球王国を結びつける史料は何もなく、両者の空間距離を考えるとそもそもそれは余りにも突飛な発想と言えるであろう。

二丁遣い
しかし史料はないと云うものの、客観的な眼で琉球武術の本質を見てみるとその特徴が驚くべきことに本土武術の中での、また非常に特異な存在である宮本家古伝兵法とかなり類似している事に気づかされるのである。と云うのは宮本家兵法は本土武術の中でも極めて古い沿革を持ち、基盤とした二刀兵法とは実は神代武術の系統を引く楯剣術の転化したものであるからである。この様な古代武術は本土では日本刀の発達によって殆どが途絶し、寧ろ琉球王国において連綿と古いままの武術が継承されていたと言えるのである。琉球は近世戦乱期も楯武術で戦っていたし、それが現在まで継承され、琉球古武術の一端として保存されている。そして琉球古武器術は本土では殆ど見られない二丁遣いが基盤となっており、この点は二刀剣法を家伝武術の本体とする宮本家兵法との驚くべき一致が見られるのである。しかし戦国末期の武芸者、無二斎が琉球王国に兵法を伝えたとはいささか考えにくい。しかし次代の天才、宮本武蔵ならばどうだろう。同武人は全国の強豪を求めて諸国を流浪した生涯漂白の剣豪である。福原の港や肥前、長崎、肥後その他を巡る中で新たなる強豪を求めて琉球王国へまで足を伸ばす事もなかったとは言えないだろう。
いや何も武蔵が琉球に渡らなくとも両者の繋がりは十二分に存在するかも知れないのである。と言うのは、これはあくまで一説ではあるが、当時福原港を通じて一部の琉球武人(久米一族)はある事情により宮中と通じていたとも言われているのだから(この奇説もいずれ考証したいと思う)。
勿論全ては推論ではあるが、ただここで琉球武術と武蔵兵法を繋ぐ驚異のアイテムが今一つあることを指摘しておかねばならないだろう。それは武蔵が巌流小次郎と戦った時に用いたと言われる櫂(ウェーク)の存在であり、これは正に琉球独特の武器術である。しかしそもそも櫂とは日本刀の形状と比べると長大で先が重くいささか遣い難い。剣術と同様に使ったのではとても強力な戦闘能力を引き出す事は出来ない、ある意味ではかなりやっかいな道具であるとも言えるのである。しかし琉球海岸で編まれた武器術として砂掛け術などの特殊な技術伝までが秘められており、使いようによっては極めて恐ろしい兵器となる。つまりこれは武蔵が巌流島(舟島)の砂浜勝負に臨み、琉球人から伝承された独特の櫂遣いを以て宿敵小次郎を葬ったのであるのかも知れないのである。それは武蔵と琉球武術が互いの兵法秘伝を交換し合っての業績であった。しかして武蔵を通じて独特の宮本家二刀兵法の技術極意と十手武器の形態と術理が琉球国にまで伝えられたのかも……?
それが一つの証拠には実際久米一族の間に遺伝した「湖城ノ釵」の中には宮本兵法の極意伝の一つ、「飛龍剣(手裏剣打様之事)」とそっくりな技術、つまり投げ釵技法がしっかりと内蔵されているではないか……!

琉球武術と宮本兵法との不思議な関係、それは数百年と数百里の時空間を天翔てきらめく一つの武術ロマンであり、そのロマンと真実の間の堀はまだまだ完全に埋め立てられているわけではない。しかしいま少し根本史料が発掘されその奥の真実が明らかになるまでの間は日本武術史の中に若干のロマン空間があっても良いのではないかと思うのである……。
      [終]

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