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「武蔵研究の混迷一」

大河ドラマ
現在NHKにおいて『武蔵』の大河ドラマが放映されているようであるが、先般何度かみる機会があり、原作と全く違う内容に驚かされた。何年か前にも東京テレビのお正月番組として十二時間時代劇ドラマで『宮本武蔵』を制作されたが、それも原作を大きく崩した愚作であった。しかし今回の大河ドラマはそれを大きく上回る駄作のように感じられたのである。勿論文化作品の優劣など所詮各人の好みと感性の問題に過ぎないが、であるならばそれこそ筆者の独断と感性に過ぎないと言う立場でもって筆者の自由感想と言う意味合いで思った事を少し述べてみたいと思うのである。
吉川武蔵を基本ベースとしたとする武蔵漫画として『バガボンド』なるものがあり、先般門人が参考に持ってきてくれたので何巻か読むことになったが、これも酷い作品であった。筆者は現在は小説など殆ど読まないし、また特に現代の邦画も殆どみることはない。双方余りにもレベルが低すぎると感じられのである。みることがないのに何故にそんなことが分かるんだと言われるかも知れないが、長い年月のなか、時にはテレビなどを通じてたまにみる機会もあり、そのたびにつまらないからこそそれぞれみる事がなくなったわけである。
最近日本のあるアニメ映画がアカデミー賞を獲ったと言うニュースがあったが、どうせ下らん作品に決まっているからただでもみる気がしない。レベルの低い作品の鑑賞など全くの時間の無駄なのだから。観もしないでそんな事を言うのは宜しくないと言われるかも知れないが、その作者の前作を二作ほどテレビで観た事があり、それらも世間では評判の作品ではあったがその下らなさはかなりの高レベルであり、それを知っている以上は馬鹿馬鹿しくて到底観る気にはなれないわけである。
日本の文学文芸はいつのまにこんな低いものになってしまったのだろう。下らん作品が生まれる事は致し方ない部分があるが、それより情けないのはそれらを肯定し、また果てはそれを絶賛する似非文化人が存在する事である。そもそもそのような文化的に低いものを日本文化の至高として海外に紹介する事が余りにも情けなく、日本文化を貶めるものであると言う事に気付かねばならいと思うのである。
ともあれ今回の『武蔵』の作品としての低さは確かにかなりのものである。吉川英治は『宮本武蔵』を通じて、単なる肉体人間を超えたところの「久遠の命」と言うものを描いたのであり、よってこそそれが日本人の心の奥底に共感を呼び名作として今日でも讃えられているのだと思う。
勿論映像化に際して吉川武蔵に囚われない新たなる武蔵を創造しても悪い訳ではないが、それはそれで別の意味の優れた魅力があればよいが単なる愚作であると言うのが筆者の評価である。
比べると映像の武蔵としては内田吐夢監督の『宮本武蔵』五部作の方が遥かに名作であったと言えるだろう(五部作の後にあと一作『真剣勝負』が制作されたが、これは少しラフな作品で五部作から外される事が多い)。内田武蔵も全く吉川武蔵を丸写しをなしているわけではなく、少し性格を替えたり、新たな逸話なども加えてあるが、それはそれで良いような方向に作用して作品に深みを与えているように感じられる。ただ門人にこの映画を紹介するとこの作品はレンタルビデオ店では手に入らないと言われて、少し調べると驚いた事にこの作品は「レンタル禁止商品」に指定されていることが判明した。となると販売商品を購入するか、映画館やテレビで公開されることを期待するしかないだろう(※)

※追記 幸い先般衛星放送で放映され、祖父江先生がご親切にも録画して下さり、改めて全編を鑑賞する機会を得た。やはり優れた作品であると思い、感銘を新たにした次第である。但し最後の『巌流島の決闘』における最後のにお通に合う場面はやや捻り過ぎで、ここは原作のほうが優れているように感じられた。

武蔵研究
話の枕のつもりで武蔵ドラマの話を続けてしまったが、本題は武蔵研究の混迷についてと言うことであり、話をそこに戻そう。
吉川武蔵は優れた文学作品ではあったが、真実の武蔵とはまた別である事は当然であり、史実とは違う逸話がてんこ盛りされているが、小説なのであるからこれはこれで結構なわけである。また小説が書かれた同時の武蔵研究のレベルの問題もある。以降半世紀以上がたって武蔵の実像がかなり判明してきたわけであり、現在『武蔵』ドラマを再現するならばある程度の最新の研究成果から新たな武蔵像を描いても良いのではないか思う。そしてそれは吉川武蔵の良さを損なわない立場をとることも出来るのだから。
吉川武蔵の最大の問題点は本来の武蔵は小説以上に文化的な人物であり、剣術は自得なのではなく、ちゃんと家伝の二刀剣法を修めた宮本家兵法の継承者であったと言うことなのである。その他武蔵の生国問題にしろ吉川武蔵以降に色々な発見や論説がでてかなり研究の様相が変わってしまっている事も事実である。
しかし武蔵研究のレベルが本当に上がって来ているかと言うとこれは中々に微妙であり、研究者も代替わりをしてしまい、研究者自体の質が極端に低下し、かなりの混迷を来している事も事実なのではないかと思うのである。かつての武蔵の研究者たちは確かに優れた業績を残され、それなりに論説は正統であったかと思うが現在の自称研究者たちの多くは先代の業績の剽窃と歪んだ論説の押しつけのてんこ盛りであり、逆に武蔵研究を混迷に導いているように感じられるのである。これらの問題点について今回は考えてみよう。

生国問題
先ず現在の研究者は武蔵の研究の流れからゆくと正に代替わりをなし、そして悪い事に先代の研究の上っ面しか観ていないので、そのために歪んだ論説をなすものがどうも多いように感じられる。その第一の問題は生国問題である。そもそも論の流れから行くと明治以降の研究によって先ず、作州生誕説があり、それに対して後の研究者の批判があり、播州生誕説が浮上して後代の研究者がそれに安易に乗っかってしまっている構図が生まれたのではないかと感じられる。
播州生誕説は後説であるために自ずから強弁的になり、よってそれをみた後代の研究者は影響されて多くは播州説を称える者がどうも多いようである。
この様相に関して「現在のまともな研究者は殆ど播州説に傾いている」と評した者もいたのであるが、しかし現在の武蔵研究者で「まとも」と言える者がいるかといえばこれはかなり苦しいだろう。正直なところそれは皆無に等しいと筆者には思える。
現在は昔と違い情報、資料の蒐集はかなり容易となり、マニアはそなりに集めているようではあるが、資料をてんこ盛りして業績とされても困るのである。問題は資料に対する解析が大体においては甘く、まともな研究手法を持っている者が殆どいない事である。
そもそも「まともな研究者」であるならば、本来武蔵生国問題においては「未確定」とするのが正当であると思うが狂信的に「播州説」を称える事は問題ありといえるであろう。

死んではいない作州説
定説化しかかった作州説に対して確かに播州説が浮上した。丸岡宗男氏や綿谷雪氏などが資料を提出して播州説を紹介したわけであるが、両者とも紹介したのであって必ずしも狂信的に播州説に固執したわけではない。播州説を強弁したのは原田夢果史氏の『真説宮本武蔵』であったのではないかと思う。
ともあれ前代の研究者は播州説の資料を提出し、論証せんと図ったわけである。しかしそれではそれらによって武蔵播州説が定説化されたかといえば実はこれはさに非ずであって、必ずしも論が全く覆ったわけではない。もし播州説の資料がまともであり、正に真説であるならばそれが定説となるであろうが、そのようにはならなかったのは播州説を支える資料にも色々問題があったからである。
確かに播州説論者が論難するが如くに作州説資料には色々問題がある。しかし播州説資料にも問題があり、ある意味では作州説以上に問題がある事に注意しなければならないと思うのである。その意味では作州説も未だ死んでしまっているわけでない。もし播州説が真説なりと主張するのであるならば、その問題点を含めてそのまともな論証をなすべきであり、余り狂信的な論説は如何なものかと思うのである。

播州説の問題点
確かに作州説資料は問題がある。武蔵の実父とされる平田無二斎は天正八年没とされるが、武蔵の生誕は天正十二年(十年説もあり)とされるから両者をDNAで結ぶ事は少し難しいのである。その点を播州説論者は論難したが、しかし播州説の論拠として上げられた文献では武蔵の実父、田原甚右衛門の没年は天正五年であり、しかも母方は天正元年没なのであり、作州説以上に不可能性が高いのである。そして作州文献は後世の偽作なりと播州論者は論難したわけであるが、しかし田原系の宮本家系図もかなり後世の作成であり、胡乱な部分があるのであり、過去世の伝聞を便りに書き写した資料であると言う事では両者は同じなのである。そもそもが宮本伊織の建てた小倉碑文には武蔵が田原家の血脈であった事を述べているわけでなく、宮本無二を養父としているわけでも決してないのである。寧ろ「十三歳に始めて播州に至る」としており、「作州生誕説」を支持した内容となっているのである。小倉碑文を素直に読んだ限りにおいては武蔵作州生誕説に疑点は生じないように思われる。もし武蔵が田原家の血脈子であるとするならばそれを記載するのが寧ろ本当ではないかと考えられるのである。

泊神社
しかし伊織は生国地元の泊神社にも棟札を残し、そこにも文章を残している。そこにはやや微妙な記述があり、新免無二が嗣子なく、よって武蔵が遺を受けて家業を継いだと言う様な記述がある。これは読みようによっては確かに新免家に武蔵が養子に入ったと解釈出来ない事はない(しかし明確に養子に入ったと述べているわけでもないのである!)。しかしこの記述はかなり胡乱な部分があり、新免氏が天正年間に筑前秋月で卒したと言うことを述べており、年代的記載において人物の錯誤が認められのである。恐らく平田武仁と宮本無二と混同した記述の様にも感じられるのである。そしてこの棟札では自己の出自として田原家の事をかなり紹介しているのであるが、武蔵を田原家の系列においているわけでは決してない。もし武蔵が血脈的には自己の叔父にあたるものであるならばそのような記述がもっとあるべきであるようにも感じられる。

平田系図
考察してきたように宮本家系図にも問題がある。翻って平田系図を考えると確かに武蔵の実名を「政名」としているなど胡乱な部分が確かにある。しかしいかにも平田系図は後世の作成であるとして、そしてその中に後世の他文化(浄瑠璃など)が紛れ込んでいるとしても全くの零からの偽作と言う事ではなく、やはり根本的な正しい情報は遺存していると言う可能性も勿論ないとはいえない。
と言う事になるとやはり武蔵は平田武仁の実子であったのだろうか。いやこの点においては武仁の没年が問題となる。しかしながら比べて宮本家系図よりはかなり近しい年代であり、不可能性は田原系よりもかなり低いのである。
この点において平田武仁の没年を強引に十八年の間違いとする研究者もいるが、これは流石に牽強付会であると感じられる。逆に武蔵の年齢の方が多少スライドできる可能性は高いのではないだろうか。
そもそも武蔵の生年を確定出来る資料はある程度ないわけではないが、根本資料は五輪書の「とし積もって六十……」言う記述のみであり、他の資料はこの記述から割り出された生年年号が記載されているのに過ぎないと思われるのである。つまり天正十二年誕生説は五輪書が原典であると考察される。しかし宮本家系図では天正十年になってるが、これは十二年説が数えでの推定、十年説が満での推定と言うことではなかろうか。
しかしこれらの推定にはある程度の誤差があるのではなかろうか。
『五輪書』の記述に立ち戻って考察してみると、武蔵研究書を著述した魚住氏はこの部分において、「これは韻を踏んだ文章であり、大体は六十と言う事と考えられ、数歳の誤差はあるかも知れない」と言うような意味合いを述べられ、しかして宮本家系図の天正十年説を採られているのである。
正しく天正十年が正確な生誕年かどうかは不詳であるが、韻による合わせと言う事と、数歳の誤差と言う点においてはなるほどと納得できる理論であり、筆者も可能性はあると感じられる。となると武蔵の生年は天正九年くらいでもそれほど不思議ではない事になる。天正八年も当時満で六十二、三歳と言う事になるが、可能性としてはないとはいえない。
天正八年生まれならば何とか平田武仁と繋がるし、天正九年であってもぎりぎりで可能性はある事になる。妊娠中に夫に先立たれる事も戦国期においては大いにありがちな事なのだから。

お政
作州資料によると武蔵の母親はお政と言う方らしいのであるが、当時の資料が胡乱であり、実際どういう関係になっているのか不詳な部分がある。特に分かり難いのは平田武仁と宮本無二、そしてその間を結ぶお政の関係であり、資料が錯綜し、お政が両者の妻となっていると思われる文献まである。これらの真実を解明する事は今となってはかなり難しいが要するに色々な可能性が考えられるわけである。
子供(武蔵)が生まれる前に夫に先立たれたお政の面倒をみたのが親戚でもある宮本無二であり武蔵を養子に迎えたのか、それとも後家であるお政と結婚して武蔵を生んだのかとも思われる。
ただ武蔵と宮本無二は義理の親子説を記載した資料は宮本家系図以外にも存在しており(実手圓明流の資料など)、となるとやはり平田武仁の死後お政と武蔵を引き取って面倒をみたと言う事になる。しかし養子説を称えるのはかなり後世の資料である事が気になる。武蔵の江戸期の小説では武蔵は宮本武左衛門の養子になるわけであるが、この話が色々な資料に陰を落としていると観察できない事もないわけである。つまり浄瑠璃の「宮本無三四」や「政名」が平田系図に陰を落としている点と同じ問題があるのではないかとも思えるのである。
ともあれ武蔵は作州資料では平田武仁の実子となっているのであるから後に親戚である宮本無二の養子となって家伝の武術を学んだと言う風に解釈したい。
また平田武仁はそれほど関係なく、単に宮本無二の実子であったと言う可能性もあるだろう。作州資料は要するに平田武仁と宮本無二を混同して胡乱な記述をしていると考えられないこともない。

播州説
作州説を取った場合の可能性を述べたが勿論播州説もそれによって滅びてしまったわけではない。
実際武蔵が田原甚右衛門の実子であり、作州宮本無二の養子となった可能性もないとは言えないのだから。しかしながら年代の問題があるが播州説はこれを乗り越えられる可能性はあるのだろうか。田原の父方が天正五年、母方が天正元年没であり、これは墓まで残っている。墓があるからといってその年代が絶対正しいとは言い切れないが多少の胡乱ではなく少しギャップがありすぎる点は問題である。それでは武蔵の年齢を動かすことが出来るかと言えば、『五輪書』の著述の胡乱さから確かにある程度のスライドは可能であるが、十年以上ものずらしは難しい。特に武蔵の生涯における年齢記述があり、十年ずらすと他の史実と辻褄が合わなくなってしまう可能性がある。例えば吉岡一門と戦ったのが関が原戦の以前の戦いになってしまうし巌流島も関が原直後のかなり難しい年代になってしまう。現時点では全く有り得ないとも考証出来ないが『五輪書』の記述をみた限りでは少し難しいだろう。
やり方としては田原家の記録違いとして、墓の年代も記載違いとするか、また間に一代通している可能性を想定するしかない。しかしそこまで考えると田原系図の信憑性に跳ね返ってくる難しい展開となるだろう。全く可能性がないわけではないが播州説にはこのような大きな問題点がある事を覚えておいてほしいとは思うのである。

生国播州
播州説をやや否定的に説くと、それでは五輪書の記述はどうなっているんだと怒られる可能性がある。しかし武蔵の著述だからといって百パーセント鵜呑みにする必要はないと筆者は考える。これは名門赤松一族の末裔である事は説明するために単に分かり易く説明したと考えれば良いと思う。
武蔵が嘘を書いたのかと言われるならば、その可能性はあると考えたい。但し善意の嘘ではあるのだが。つまりこれを譬えをもって語るならば、筆者の大学時代に石川県出身の友人があり、彼は皆への説明に金澤出身と説明していたが、住所を調べると金澤市外となる野々市であり、金澤ではないではないかと皆から非難が上がったことがある。彼は「いや、それはその、つまり皆に分かり易く説明した……」と言う風に言い訳をしたが言ったことが不正確であった事は事実である。しかし彼も近しい金澤市内には常に行き来し、そこが生まれ故郷との感覚があったことも事実なのではあるまいか。
武蔵も十代から国をでて播州の地を徘徊し、先祖の国でもあり、そこに自己の生国と言う感覚が生まれても不思議ではなく、また皆への説明には播州赤松の末裔であることを強調し、分かり易く述べたのみであるのかも知れないわけである。

武蔵武術の本質
生国問題における研究における問題点を解説したが、この問題は武蔵の本質から行くとそれほど大きな問題ではないと筆者は思う。勿論歴史的事実の問題としてはその解明は大きな課題ではあるが、筆者は武術史家の立場から武蔵を解析しているのであって武蔵が播州で生まれようが作州で産声を上げようがそれほどの違和感は覚えない。江戸や奥州生まれとなると上方系ではないと言う異質感が生ずるが、武蔵は上方系の筆者の地元近隣の剣豪である事に違いない。(強いて言えば岡山では近畿に入らなくなると言う問題があるが)
それよりも武蔵兵法の源流は何処から生じたのかと言う点に注目し、筆者は資料を尽くして今まで考証してきたのであり、この論証が今日かなり一般にも浸透してきた様に思われ、真に喜ばしい限りである。
しかし現在の研究者の著述をよくみると筆者の考証の上っ面を写すばかりで、その本質をよく捉えていない、かなり歪んだ著述がかなり多い様に思われるのである。このような著述ばかりでは武蔵研究が益々歪んでしまう危険があるようにも思われる。
多くの研究者にそれぞれ多くの問題点があり、中には論難するのも馬鹿馬鹿しい様な単なる剽窃と歪んだ思い込みの著述、何とも幼稚な著作も多数ある。
そのようなものは相手にも出来ないので今回は武蔵研究としてはある程度の業績が認められる魚住孝至氏の著作『宮本武蔵 日本人の道』を取り上げて問題点を論評してみよう。

全体像
本書は多くの武蔵資料を整理して論評を加えたものでそれなりの業績であると評価できるのであり、武蔵研究上にこのような労作が刊行されたことを慶賀したい。しかし良いところも多いが、全体的にみるとやはり変な部分もかなり見受けられる様である。先ず基本ベースが播州説を正当としており、作州説を殆ど切り捨てている事は問題である。綿谷氏は作州説が定説化しているなかである程度強弁的に播州説を紹介したが、必ずしも完全肯定した訳ではないし、また丸岡氏などはかなり客観的に両者の問題点を指摘して妥当な論評を加えているように感じられる(ただやはり少し播州説よりの論であるが)。このような感性から観ると論に歪みがあると感じる。
作州説を否定するのであるならば作州資料を否定する論拠をいま少し提出すべきではないかと思われるのである。
その他著述の中で問題点を少しあげみよう。
32頁の「『十文字槍』は、戦国期に発達した両側に二本の刃がでた手槍である」とあるが、原資料には「手槍」との説明はないようである。手槍の方が普段遣いとしては確かに遣い易いとは思われるが時は戦国期であり、やはりちゃんとした戦場槍であった可能性も高いだろう。資料なく決めつけることは問題ではなかろうか。
しかしそれはともかく実はその後の解釈が問題、大問題なのである。
34頁に「(無二斎の)『十手』は『十文字ノ槍』のことであろう」としているのである。この記述には筆者もビックリしたが、ビックリしすぎて流石にそれを論評する気になれないので、ビックリしたと言う記載に止める。

當理流の内容
當理流の十手を十文字槍のこととする論述を観ると後の考証がかなり不安になるが、つぎに當理流の内容について考察している。この点については既に筆者が鉄人十手流資料や兵道鏡、また武蔵を通さない和介田卜斎やその次代の荒木無人斎の資料などを駆使して考証してきたものである。改めて魚住氏の考証をみると荒木無人斎の絵目録資料は採用せずに他の人脈の伝書の目録形名からの考証となっている。論証の推移はそれほど可笑しい部分はないと思うが、最後の結論として「養父無二の当理流は二刀の流儀であったと推定される」と論述している部分には問題がある。確かに現存する水田氏へ発行した當理流目録が二刀剣法を中心に記載された目録であるらしいことは間違いないが、一巻の伝書でそこまで推定してしまうのは勇み足である。一般に武術の伝書資料には多くの巻数があり、武術教伝にも段階があり、そうそう単純に決めつけるべきではないと考える。

弟子
36頁「武蔵も含め弟子全てが二刀であったことを考えれば……」
この記述も問題である。全てといっても武蔵は二刀剣法の創始者とされているのであるから別格として、武蔵以外の弟子のなかで二刀剣法を伝承したと資料から推定されるのは和介田卜斎のみであり、全てと言う表現は少し可笑しいだろう。しかも和介田氏も二刀剣法を伝承したことは間違いないが二刀剣法オンリー流儀であるかどうかは不詳である。

本書の問題点はまだまだとあると思われるが、他の書籍を含めてより深い解析は次回に廻すこととしよう。

[古流武術月例会々報題百八十回]

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