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「武蔵研究の混迷2」

道場見学
最近また別の道場稽古の様子を機会があって拝見することが何度かあったが、余りに低いレベルの稽古内容と精神性の無さにひっくり返ることがばかりである。今の組織化された武道に精神性を求めることはそもそも無理な部分があるが、それにしても余りにも酷すぎる。それに輪を掛けて技法レベルも低く、そもそも仮令古流武道を謳っている道場においても古典を殆どやらない道場が多く……、いや、それよりも何よりも稽古自体を殆どやらない道場までがあるのであり、全く驚かされたのである(※)。
現代の世相をみると、武道王国日本において何故に中国武術などが流行るのか疑問に思っていた部分があるが、日本武道が伝統的な正しい稽古法をすっかり捨ててしまい、現在若人が真の武術というものを求道しても、殆ど正当な武術技法を学べなくなってしまっている状態がかくも存在すると言う事実……真実を見据えなければならないかとは思ったのである。また武道とは身体を育成し、心気を養ういと優れたメソッドであるはずであったが、今の武道では身を損なうばかりであるようにも思われるのであり、真に嘆かわしい限りである。
明治以降の日本武道は何とか武道を廃らせない為に先人が努力し、組織化や競技化、新制型、段級制度の整備に努めたが、その果てに武術の本質がすっかり失われてしまうという大変な事態となってしまったのである。その意味では近代化が遅れた分においては未だ中国武術のほうが昔の伝統技術が未だ指導されている可能性が多いのかも知れない。日本武道のような深い文化性と精神性は望み薄かと思うが、しかしそれでは今の日本武道に精神性があるかと言えば古流武術、現代武道に関わらず、これは両方とも殆ど無理である。古流武術を謳っていても所詮殆どの場合組織化その他の現代化が必ず施されているのだから。実際的に今の日本では正当な伝統武術技法を身につけることはかなり無理であろうかと思う。後はどれだけその片鱗が遺せるのか努力するのみに過ぎないのであろうか……。筆者自身全方向的な意味で自己の武道を指導したことは一度もないのだから。

※ 後日、またそことは別のかなり著名な道場稽古を拝見する機会があった。流石にここは皆の鍛錬の高さはレベル高いものがあり、前の道場と比べて感心させられた。しかし残念ながらやはり現代系武道道場(一応は古流武術の道場ということなっているが)の根源的的な問題がやはりあり、少しがっかりさせられた。それはやはりレベルの高い手継ぎ教伝がなんとも甘く、実際的には殆どなされていないことである。

先代研究
話がまたまたずれてしまった。話を武蔵研究の混迷についてに戻す。
さて学術的な研究において各研究者がそれなりの真面目な論争を経て、正しい論に至ることが本来は望ましいと思うのであるが、今の武蔵研究界は余りに歪みがありすぎ、又結局は研究レベルが低く、まともな論争が出来るような状態ではないことを遺憾に思うのである。そもそも皆都合のよい論説の剽窃は得意であるが、本当の意味で先行研究の把握すら出来ていない者が多く、筆者がなしてきた考証ですら十分摂取していない立場においては最先端の議論など初めから無理である。
魚住氏の著作を取り上げたのは比較的多くの新資料を盛り込んだ業績大著として取り上げたのであり、それほど他意はない。……解析を続けよう。

巌流島
巌流島の解説において、それぞれの考察があるのでこれはこれで結構かと思うけれども、筆者との見解の差異も含めて少し気になった部分を指摘してみよう。78頁において「ただ武蔵が長い木刀で戦ったことは確かである」としており、その根拠として長岡家に残された伝巌流島戦闘木刀写しを上げている。筆者もそれなりにしかりかと思うが、筆者の研究手法は口伝承については流儀の伝としては尊重するが、事実の解析の立場としては疑ってかかることとしている。つまり長岡家の大木刀が巌流島戦の得物写しと言う点は少しうたぐっている。文献的に考えると大木刀を用いたとするのは『二天記』のみであると言うことは指摘したいのである。その原典となった『武公伝』は単に「櫂を削った木刀」としているわけであるから『武公伝』→『二天記』の流れの中で「大」の理念が入ったこととなる。勝負の得物について記した資料の嚆矢は『武将感状記』であり、「棹郎に櫂を請て二つにわり、手本を削……」と言う風に描写されているので文献学上は普通の木刀の二刀遣いと言う風に解釈するのが自然ではないかと思う。『二天記』の場合は他の複合的別の文献をつなぎ合わせて造られた創作であることは魚住氏の指摘される通り確実なので、余り問題にする必要はないと思われるが、問題は長岡家資料との矛盾をどう解釈し何方かを採用するかと言うことである。筆者としては武術技法解析の立場から現時点では『武将感状記』をとりたい想いがある。また因みに武蔵が重要な試合に関しては一刀で戦ったと言う論においても若干懐疑的に捉えている者である。というのは特に二刀にて戦ったと描写していないにしても、だからと言って二刀遣いではなかったともいえないのではないかという所感をもつのである。戦い方として少し特殊なのは吉岡伝七郎との戦いで敵の五尺あまりの木刀を奪って撃ち殺したというような描写となっているが、素手で強豪相手に無刀捕りが果たして出来るのだろうかという疑問が生ずる。これはやはり二刀で戦い、受け止めてそこから敵刀を奪い取ってその得物で撃ち殺したのではないかとも思える。これは竹内流などで多く行われている技法であり、古伝の方法論である。
勿論資料がない以上は確実な判定は出来ないが武蔵が二刀遣いの兵法家である以上は第一義的には二刀の戦闘を想定すべきではなろうか。ともあれ巌流島の戦いの図は二刀遣いで描かれていることが多いようである。

武蔵剣法の道統
次に390頁に二天一流の道統として現在に残るは肥後系の山東派と野田派の二天一流の二系統であるとしているが、加えて故秋満紫光先生が小倉で習い伝えた「伊織伝二天一流」、そして故荒関二刀斎先生が五十嵐師範から学び伝えた神免二刀流の系脈があることを指摘したいのである。
秋満先生の伝は先代、先々代までの系脈は判明しているが、その以前が不詳で宮本伊織からの伝脈が不詳な部分があり、また江戸期におけるこの道統の中間資料が余りないという問題がある。しかし肥後伝における二天一流においても伝流の中間期における伝授系脈の資料は殆どないことも事実である。どうも二天一流という流儀はちゃんとした古典的な秘伝書資料文化をどういうわけか武蔵自身が制定しなかったようなのである。青年期に打ち立てた圓明一流は『兵道鏡』という優れた流儀の秘伝書を作成し、晩年期の二天一流用にも優れた剣術極意テキストと言える『兵法三十五ヶ状』『五輪書』などを作成したが、一般流儀の伝授巻とはかなり形態が違う驚くべき内容でありすぎ、一般的な伝授巻のように後世において機能しなかったようなのである。
そのことを少し考えてみよう。

神秘装飾
武蔵の伝授書と一般流儀の伝授巻の形態的な大きな差異は先ず武蔵伝書が冊子本であり、一般流儀は巻子本が多いことがまず違う。
どうも武蔵は巻物の伝授巻は作成していないようである。一般流儀は型名を記載した目録巻物を発行して伝授の証としたが、武蔵は天才でありすぎ、細かい極意口伝まで記載したテキスト伝書を残したわけである。これはこれでものすごいことなのであるが、その内容が膨大でありすぎ、複写技術の存在していない時代としてどんどん伝授巻を発行するという形が少しとりにくかったのではないかと思われる。簡単な型名目録を伝授の証となす方式は伝授系を明確にするという意味で優れた形態である。最も型数が少ないと伝授巻として少しものたりないが、多くの場合一般流儀はここで伝授に神秘装飾ほどこし、伝授法も重々しく行い、玉串料を頂いたりしたわけである。しかし武蔵はそのような神秘装飾を払拭した、かなり近代的な性格であったわけである。

伊織伝の問題点
筆者も縁により伊織伝二天一流を継承する者であるが、少し残念なことに歴代継承者が現在のところ完全に判明しておらず、その点正統なる古流武術文化としては少し残念な部分なのである。しかしだからこの系脈が古流武術として駄目ということではなく、逆に同流を日本が育んだ貴重な武術文化の一つとして捉え、保持と研究の努力を続けることでその不詳な部分も解明されてくるはずのものなのである。
例を上げて説明しよう。武州に伝承した三神荒木流は山田実先生が発掘されたものであるが、山田先生と筆者が探訪した時はまだまだ伝授系が不詳であったが、山田先生と徹底的に探求し、遂に正しい流儀の伝脈を解明し、正統なる古流武術としての本質を明らかになしたのである。伊織伝二天一流においてもそのような探求をなすべきではあるが、如何せん筆者にとってはかなりの遠方の地であり、中々に調査が及ばず地元における志士の合力をお願いしたと思っているのである。
また他流古武道の例をみると琉球古武道においても琉球王朝時代の伝系は殆ど判明していない。しかし琉球古武道も日本の伝統のある古式武術であることは間違いないのであり、事実古武道大会で演武されている。琉球武術は明治以降の伝系はしっかりしているではないかと言われるかもしれないが、伊織伝二天一流においても幕末から明治に掛けて継承者は比較的はっきりしているのである。
ただここら辺の人脈をいま少し探求したいと思ってきたが中々に出来ないでいる。秋満先生が「私の地元だから今度一緒にいって、先生宅を廻ってみようか」と言われて筆者も地元地図を集めたりして準備までしたが、秋満先生の年齢的な問題もあり、それもかなわぬまま先生もお隠れになってしまった。そのために先代様の情報が少し消失してしまったのが残念であり、調査の取っかかりが出来ないでいる。

系統口伝
伊織伝二天一流におけるいま一つの問題点は宮本伊織伝という点においての文証が未だ発見されていないということであり、この点を古流武術監査の立場から指摘される場合がある。
宮本伊織が武蔵剣法を伝習したかどうかは中々に難しい問題……ではなく、伝習したことは間違いないだろうが、それをどの程度継承したかが問題なのである。武蔵と伊織は明石に割合何年もに渡って共に住居しており、その間に武蔵剣法を伊織が学んだのは当然であると思われる。但しそれは時期的に武蔵剣法の変遷の過程であり、その意味で難しい問題があるかも知れない。つまり丁度圓明流と晩年の二天一流との中間的な技術伝であったと考察できる。
そして武蔵は伊織を小笠原家に残して、最晩年には肥後において絶後の二天一流五法剣術を完成させるのである。肥後の二天一流は寺尾家に受け継がれたが、伊織伝の剣法はそれとはかなり異質な剣法型であったと考察される。
そして伊織がどの程度武蔵伝剣法を小倉にて指導したのかは不詳であるが、伊織を系脈師範におく伝書類資料は存在し、そして小倉で学んだ秋満先生の古式剣法型は確かに遺存したのである。但し勿論秋満先生の伝も武蔵の時代から三百五十年が経過しており、伊織伝そのままあるということまでは伊織が発行した伝書類が未だ発見されていない段階においては考証し得ないが、圓明流時代の技術名称をかなり残し、また五法と同じ五本の型を伝承しているという意味合いで両者の中間的な技術伝と観察される。
とはいえ伊織伝も恐らく長い伝承の間にそれなりの技法の変化は経ているだろうということは考察できるのである。しかし武蔵剣法の伝脈の末流ではあっても幕末から明治の掛けての古式剣法型が遺存したということは間違いなく、これはこれで大変に貴重な文化財であることは間違いないのである。

流儀の伝承
さきほど口伝承は余りあてにはならないということを述べ、文証学的な考察を提唱したが、しかし流儀の口伝承は尊重しなければならないことも申し添えておいた。
現存各流儀における口伝承は真に重要な存在であり、文証学的に否定されない立場においては尊重することを基本としなければならないと筆者は考える。故に例えば西郷派大東流の取材の立場においても伝承者が西郷四郎伝を称え、それを完全に否定する資料がでない以上は継承者の口伝を尊重するのは当然である。
ただ勿論口伝承以外の資料にて他の可能性を模索することも必要であり、伊織伝二天一流においてもその成立過程においては色々模索したいとは思っているのである。場所柄的には鉄人十手流や無二伝の當理流の流れが混入していたとしても不思議ではないかも知れず、そのような考察はなすべきである。
しかし明治初期における伝承の地は小倉であり、内部の口伝承も伊織伝である以上、それを特に積極的に否定する資料がないのであるならば、それを伊織伝として紹介するのは当然であると考えるのである。
ただし伊織は剣法を継承しなかったとする資料があり、伊織伝剣法の存在を否定する説も存在している。
しかしながらその資料といってもかなり断片的であり、かつ後世の宮本本家の資料であり、それは必ずしも決定証拠にはなり得ないと筆者は考える。そもそも武術流儀というものは家系で継承されるものではなく、流儀を継承していない後代の子孫の記録はどちらかといえば信憑性に掛けるように思われるからである。
それはともかくこれからも伊織伝二天一流の資料を求めて行きたいと思っている。

神免二刀流
次に荒関先生の神免二刀流の道統についてであるが、これも越後にて伝承したことと同地出身の五十嵐師範が伝承した道統であることは間違いないが、武蔵からの歴代継承者が残念ながら余り判然としない。流儀の名称から新免信盛系かと思われるが、確証を得ない。ただこの道統の調査は小佐野淳師範がかなり精力的に押し進め、越後の二天二刀流の流れを汲む系統ではないかというところまで詰めた考察の研究業績がある。五十嵐師範にまでどう繋がるか未だ不詳な部分があるようであるが、それもこれらからの研究課題であると考えるのである。

古典形
神免二刀流の問題点はいま一つあり、古流武術の一つのステータスである古典形の継承がなされておらず撃剣技術のみの伝承であったようなのである。これが江戸期からそのような形態であったのかは不詳であるが、流儀の古典形が存在しない以上は確かに古流武術として認知するのにかなりの難儀がある。しかし現在の古流武術団体でも古典形がなくとも古流武術として演武される流儀が無きにしも非ずである。例えば大東流や御殿手、また風伝流なども古典形は伝承していないが、古武道大会で演武されているわけであり、それらが絶対条件というわけでも必ずしもないという立場もあるかも知れない。また江戸期における武術が全て古典形をもって流儀が継承されていたかどうかは不詳であり、例えば直心影流の榊原師にしても流儀の形を殆ど伝えず殆ど撃剣で門人を指導していたという説もある。現代においても古流義を表看板としながらも流儀の形を殆ど教えず、乱取りや竹刀競技しか教えていない道場もかなりあることも事実である。それが完全に講道館式となり、また現代剣道に統合されてしまっているならば致し方ないが、流儀のやり方をある程度踏襲しているのであるならば、不完全ながらもそれは流儀文化の一端が遺存しているとしてある程度は尊重すべきであると考える。
神免二刀流においては江戸期に育まれた二刀を用いた撃剣技術伝がかなり伝承しており、その技術を継承されたということで荒関先生の伝を大事にし、その系脈の中に武蔵剣法の一端があるとして捉えるべきかと思うのである。
荒関先生には筆者も十年ほど前に謦咳に接し、僅かながら二刀の試合技術の手解きを受けたことがある。後に先生が纏められた十三本の新二天一流の形の手書き手順解説書を贈られ、筆者もそれを参考に形を学び、また剣道防具を揃えて竹下英五郎先生や、また門人などと二刀の試合技術を研究したりしたのである。またそのうちに流儀を正式に継承された小佐野先生が流儀の解説書籍を刊行され、神免二刀流系の二刀試合技術が公開され、真に喜ばしいことであると思うのである。

資料評価
魚住氏の著書の良いところは多くの武蔵系資料を蒐集し、色々な方面からその資料評価を施していることである。しかし少し疑問に思う点もある。上げてみよう。
261頁に武蔵の著述とされるものの中で内容的に武蔵のものとは認め難いものとして三点の資料を上げている。
まず『十智』であるが、捉え方は色々あるが、確かに武蔵著述とするのは苦しい資料である。ただ現時点では完全否定も出来ないようにも思われる。
次に『円明流兵法免許巻』の武蔵が寛永十六年に書いた著述とする記載があるが、それを内容的に後世の書き加えと判定されている。これも断言は出来ないとはいうものの妥当な判定かと思われる。実はここまでの考察と判定は結構なのであるが、次の資料の考察は如何なものかと思われたのである。
『二天流目録手継書』についての考察であるが、最後の判定として「『二天一流』を名乗る最晩年に秘伝を否定する武蔵が『兵法書付』以来五本であった形以外、秘術の『目録免状』を作ることは考えられない」と述べられているのである。
しかしながら、先ず二天一流を名乗るのが最晩年であるかどうかは微妙であり、流儀の名乗りは平行して(円明流、二刀一流、二天一流など)用いていた時代もあったのではないかと思うのでやや的外れな論説のように感じられる。がそれより先に重要な問題がある。
というのは要するに、このような判定は前の二書については武蔵著述とした写本であるのだから、いくらなしてもかまわないと思うが、同書は後世の流儀の秘伝書であり、伝承する形目録とその形解説をなしたものである。そして後の部分に武蔵の最晩年の遺作、五輪書を「五巻之書」として写した伝書である。最初の目録解説文においてどこにも武蔵著述とする記載があるわけではなく、このような場で同書が恰も偽書のように取り扱うのは如何なものかと思うのである。
性質的には同書は肥後以前に武蔵剣法を学んだ藤本左近系流儀の後代の秘伝書である。筆者も調査が及ばず、二代目がどの時代の師範かを特定することは出来ないが、流儀自体は小倉あたりに伝承した流儀であるので武蔵が肥後に行く前あたり、武蔵の中年期における師範かと思われるのである。しかし武蔵の父は黒田藩にいた時期もあるから存外無二の門人にも連なる古い師範であった可能性もあるかも知れない。流名は二天一流を名乗っているが、武蔵に長年、おりに触れては指導を仰ぎ、長く付き合っている過程において武蔵自身が流名を替えていったのであるのであるから同門を学ぶ藤本氏も最終的に武蔵が名乗った二天一流を名乗ることはそれほど不自然ではないと思われる(この点は伊織伝二天一流においても同じである)。そして最晩年期は武蔵は遠方の地にあったが武蔵が最終的に残した五輪書も何とか入手し流儀の秘伝書として付加したわけである。
五輪書には二天一流とあるのであるから藤本師範もそれに倣ったかも知れないが、それより先に武蔵自身が肥後に向かう前、大分前に既に二天一流(もしくは二刀一流)と名乗っていたようである(この期の確定はまた別に考証したいと思う)。
肥後資料である五輪書は以前の武蔵門人の系統にも結構流れており、それらがどの様な経緯で流伝していったのかはよく分からない部分があるが、武蔵自身が流儀の秘伝という考え方を否定する考え方をもっており、継承者たちも武蔵の思想をある程度継承し、必ずしも五輪書を流儀の極秘書として護る考えは取らなかったのかも知れない。
伊織や藤本師範、尾張時代の円明流時代の師範連を含めてこれらの師範は肥後の門人にとっては皆先輩師範であり、武蔵の著述書の秘匿というようなあくどい方法は余り取らなかったのかもしれない。肥後の門人たちは武蔵の嫡流子として宮本伊織に流儀の道統を譲ろうとしたという話があり、それは五輪書を伊織に譲るという意味合いも含まれていただろう。伊織はそれに対して肥後の門人たちの立場、そして武蔵の晩年の相伝の想いを尊重してそれを受けなかったのではないかと考察できる。
実際不思議な事に肥後二天一流の最高の秘伝書といえる『五輪書』は他系にもある程度流伝し、別系の武蔵流儀のなかでも受け継がれている場合が結構あるのである。

藤本左近伝の本質
藤本派二天一流で伝承された九本の二刀剣法は大変に優れた術理を有する技法伝である。但し目録形名は他系武蔵剣法には見られない独特のものである。この点は不思議といえば不思議であるが、武蔵はある時期には自己の剣法形の名称を大きく替えており、最終的には形名称を捨てている。名称がないと形分別が出来ないので「上段、中段、下段、右脇、左脇」というような物理的な名称で説明しているのみである。ただ僅かな時間差をおいてそれらに古、他系の武術文化に劣らぬ独特の名称も与えているが、それは家伝兵法の文化を継承するものではなかった。どうも武蔵は『五輪書』にも「我に師匠なし」と述べたりしている点からも考えて父親家伝の兵法を乗り越えようとしていたらしいのである。武蔵剣法の原典は宮本家二刀剣法にあることは間違いないが、武蔵は長い武者修行と戦闘を経て、同じ二刀剣法とはいいながら既に宮本家兵法を脱却し……いや何とか脱却したいとあがいていたのではあるまいか。だから……。いや無二斎兵法と武蔵兵法との差異についてはまた次回にまた考えてみたいと思うのである。

 

[古流武術月例会々報題百八十一回]

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