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「無双流2」

剣豪
筆者はどの武術よりも柔術を最も深く修行したつもりであるが、元々は剣術系の出身であり、剣術に対する執心は深く、修行を怠っていたわけではない。
青年期、地元出身の天下の剣豪、宮本武蔵に憧れて生国実家を訪ね、また武蔵剣法の実傳も力を尽くして探求した事がある。須磨にお住まいであられた小松信夫先生からは何度か山東派二天一流の手解きを受けたが、二天一流と言う流儀は形自体は本数も少なく、手順だけであるならば、簡単に数度で学べてしまう。それ以上の教えがあるかと言えば小松先生も御自身が剣道家であり、剣道の世界で剣技を磨くと言う考え方であり、形自体にそれ以上の教えがあるとは思えなかった。
「形なんか何本もないし、学んでしまえば簡単なこと。しかし技は磨かなければ意味がないだろ。しかし二刀流は剣道の試合では、本当に遣い難い。だから試合にどう二刀流を使こてゆくか、今研究しているところだよ」剣道の試合には武蔵の二天一流が遣いにくいことは分かったが、それでは実戦には優れているのかというと、試すわけにはいかず、それは分からなかった。
示された二天一流の形の芸術性の高さは何となく理解出来たが天下無敵を誇った武蔵剣法のイメージとは大分ギャップがある様な気がした。
そしてまた古流の形には本来もっともっと深いものがある事は渋川流柔術、慈元流居合術を学んでいたので理解していたつもりであり、その意味では物足りないものを感じた事も事実である。
ただ実戦技術を極限まで高めた高度な殺法技術を持つ慈元流居合術などとはまた違う、至高の芸術を具現化した不思議な流儀と言う感慨をも抱いたのである。それは武蔵の実家で国宝、「古木鳴鵙図」の実物を拝見しており、武蔵には芸道における至高の境地が存在する事は何となく理解しており、二天一流の五方之形はその一環であろうかとも思えたのである。
しかし実戦剣法としては何となく物足りない……。所為にこそ筆者は他流剣法も出来得る限り修行せんとし、古流剣法を探索したが、古流剣術は関西では絶滅に近く、代わりに幾流かの居合術を学んだ。伯耆流や無外流、無双直伝英信流などを学んだがそれらの内容にも疑問を感じ余り修行を完遂したとは言えなかった。ただその中では何となく深いものを感じ無双直伝英信流のみは東京に出てきてからも研究と学びを続け、人との縁により、幾人かの先生方から形の深い世界を教えて頂く事ができた。幾系かの無双直伝英信流に加え夢想神傳流系も学ぶ事が出来たし、また多くの秘伝書に接し、流儀の深い部分を理解出来るようになり、江戸期における本当の姿を何とか理解し、また失傳部分の復元までなしたのである。
居合の失傳部分は勿論、和術や棒術の復元まで残らずこなし、江戸期の流儀武術のレベルの高さを知る事が出来たわけである。
本誌の題名においても迷わず、無双直伝流における体術の名乗りである「和儀(やわらぎ)」を用いたが、今から考えるとそこには極めて不思議な因縁と神謀が存していたのではないかと感じられるのである。。何となれば……と、今回はその理由の説明をなしたいと思い、普段は余りなさないこの樣な筆者の修行話から始めたのであるが、いささかくどすぎただろうか? ともあれこの問題の解明に関して、ある取っかかりから徐々に分析をなして行きたいと思うのである。

宮本家体術
宮本武蔵の養父宮本無二之助一真は剣術のみならず、捕手術の達者であり、平行して体術を伝承していた事は明白である。武蔵自身も捕手伝書が写本であるが現存しており、柔術系の技もかなり出来たと考察できるのである。
しかし宮本家古伝体術とはどんなものだろう? 実傳が残っていないのが何とも残念であるが、非常に興味深い処である。出来れば復元でもよいから武蔵の体術(以後はややこしいので柔術と呼ぶ)を体現してみたいと思ったが、残念ながら武蔵柔術は目録は現存すると言うものの形解説がないのでそれは不可能に近い。しかしそれでは武蔵柔術を体現する事は完全に不可能かと言うと考えてみれば案外そうではないかも知れないのである。
と言うのは以前考証したように宮本無二之助一真は現存する荒木流捕手術の開祖である、荒木無人斎の師匠であった可能性が濃厚であるからである。とするならば荒木流こそが宮本家古伝柔術の正脈を伝える古伝柔術と言う事になる。そしてこれは実際の処は半分は正しく、半分は正しくないと思うのである。
と言うのは現在の荒木流は二代、三代目辺りでかなりの流儀の改革があり、独特の流儀になっているのではないかと考察出来るからである。
寧ろ荒木流とは別系の無人斎の流れの方が宮本家古伝柔術の趣をある程度正確に伝承しているのではなかろうか?

伝書比較
今なした筆者の観察は伝書比較によっている。詳しい考証をなすときりがないが、荒木某の師匠、つまり宮本無二之助一真との間に和介田氏を通す伝書があり、それらの伝書比較をなすと和介田柔術の内容を荒木氏は殆どそのまま門人に伝承しており、それは現在の荒木流はそれとはかなり違うので、現在伝承する荒木流の内容は後代が改変したのではないかと考察できるのである。その代も伝書比較するとそれほど後世ではなく、せいぜい二代、三代の時期に現在の荒木流捕手の体系が醸成された事が明白なのである。荒木流は森霞之助や山本嘉助辺りで現在の体系が完成されたのではあるまいか。かくして江戸のかなり速い時期に荒木流は上州の名門捕手術として独特の完成をみたのだと考察出来る。
勿論森系以外の荒木門人の流れにでも完全に古典を伝えたのではなくある程度の変革は行われているが、別のある系ではあくまで無二之助傳流儀として「無双流」の流名を守っている点に注目したいのである。確かに荒木系のある系統は最後まで「無双流」の名前を継承してその出自の秘儀を今世まで伝えたのである……。
但しこの問題は大変に難しい問題を含んでおり、現傳荒木流の開祖、荒木夢仁斎秀綱と、宮本無二之助一真および和介田氏に学んだ荒木無人斎信家が同一人物とおいた立場における考証である。この点は実は大変な問題であり、現時点においても百パーセント証明は難しい。ただ状況証拠としてはかなり容疑は濃厚であり、筆者自身は可能性はかなり高いのではないかと思っている。ここはこのテーゼが真也として考察を進めたいと思うのである。

真傳
筆者の推定を正しいとすると荒木無人斎の柔術の原型は寧ろ荒木流とは別系で伝承された事になるのであり、その一つの流れに夏原八太夫系がある。この門人は別資料、『柔道大景圖』の中に荒木無人斎の門人として現れており、夏原流とも夢想流とも名乗ったとされる人脈である。
しかし実を言えば夏原流とは信州に伝承した無双直伝流和義の別称でもあるのである。
同流の中で作成された和根源之巻には流儀の根源、系脈の中に荒木夢仁斎が現れおり、後世の資料、土佐に伝わった無双直伝英信流伝書によると同流の和術傳を「夏原流」と呼んでいると言う驚くべき事実があるのである。と言うとは無双直伝和義とは宮本無二之助一真(直伝流伝書では藤原勝真となっている。筆者は両者が同一人物ではないかと考察するのである)が伝え、荒木無人斎や夏原八太夫など通じて伝承された宮本家柔術の末流と言えるのではなかろうか。

人脈
「いや、単純にそうは言えないだろう。直伝流傳系では荒木夢仁斎と後代は直接は繋がらず(図によると傍系の様にも記載されいる)、また幾人かの継承者が間に入っているではないか」との反論があるかも知れない。確かに長谷川英信の前に何代かの人脈があるのであり、単純に夏原氏からの繋がりを認めるわけにはいかないかも知れない。しかし本当に傍系であるならば伝書に名前の記載が載る事は考えられず、また後代に夏原流を名乗っている事には注目したいのである。そして伝書に現れたそれらの人脈が今度は宮本武蔵とも関わりがあり、武蔵から柔術傳を受けたかも知れない師範であったのだとすれば如何なものだろうか?
そんな馬鹿な。何に根拠にと言われるだろうが、そこの部分をこれからこそ推理、考証して行くつもりなのである。

一致
長谷川英信の前の人脈をみてゆくと真に不思議な感覚がある。特にその中に現れた二人の名前には何処かしら他系傳脈との不思議な類似と交差点が窺えるのである。それは百々軍兵衛尉光重と万野団右衛門尉信貞の二人であるが、この人名はずっと以前、福井の柔氣流を探求した時に、同流の開祖とも称すべき団野万右衛門定吉(前名、市橋軍兵衛)、そしてその次代の団野軍兵衛定尚との名前の類似に気づき、問題提起をしておいた。この二人と直伝系の人脈とは単に名前が類似するだけで無関係なのだろうか? いや、それはとてもそうとは思えない。両者の不思議な関係を示唆する因子が少なくとも二つ、三つ、四つ、五つ、六つほどあるのである。
先ず柔氣流の開祖の柔術の師は判明していないが、京都因幡薬師堂に参籠して六十六手の柔氣(やわらぎ)を発明し、柔氣流、団野流、または六字流とも名乗ったと言う。ここに既に両者の関わりを示す因子が二つ、いや三つ現れているのではないか。珍しい「やわらぎ」と言う名称が一致し、そして実を言えば無双直伝流の手数は十一本六段階六十六本の体系となっているのである。そして六字流の六字とは「南無阿弥陀仏」の事を言っているのだと思うが六段階体系を表していると考えられない事もない。
そしてここで柔氣流と直伝流との目録内容が一致すれば両者の関係は明らかになるが、これはそう簡単は行かなかった。

直伝流と柔氣流
無双直伝流の目録内容は資料が多くあり、ほぼ明白である。柔氣流も筆者自身が福井の調査行にて伝書によって目録を確認しているので大体は把握出来るが、これは後世の資料であり、また資料が単一なので確実性をやや欠いている。とは言え結論的に言えば柔氣流の目録体系は確かに手数六十六手であるが、その内容は無双直伝流とは同じではない。福井と信州との傳脈の過程で変化したのかも知れないが、内容比較では同系とは断言出来ない様に感じられる。「それみろ。やはり両者は単に人脈が似ているだけで無関係なのだろう。本数の一致も偶然に違いない」と言われるかも知れない。
しかし筆者はそれは決してそうではないと思う。何とならばこれらの状況証拠に加えて両者の武号が一致するのからなのである。
柔氣流開祖、団野万右衛門の号は「如見斎」であり、直伝流系に現れた百々軍兵衛大尉は「山城住得誉」と記載され、老後入道して「如軒斎」を号したとされるのである。これは京都因幡薬師堂に参籠して流儀を編み出したと言う伝説に一致し、そして何よりも号が一致する以上、両者は同一人物であるとしか考えられないではないか。
そして両者の関わりをいま少し示すと団野氏は山城で大島組を退治して後水尾帝から天下無双の号を賜ったと言うのである。これらの事項がとても偶然とは思えない。そして地域的にも福井に行く前に紀州に住したと言い、ここに長谷川英信との関わりが感じられるのである。

武蔵との関わり
次はその団野氏と武蔵の関わりであるが、資料的には直接の関わりはなく、高弟の野村玄意が江戸で武蔵と昵懇であっと言うに過ぎないのである。しかし門人が関わっているということはその師匠である、柔術名人、団野氏とも面識があったのではないかと思えるし、それより先に何故に野村氏と昵懇になったかと考察するに、皆養父、宮本無二之助一真との関わりからではなかったかとも考察出来るのである。
宮本無二之助一真から荒木氏、夏原氏を通じて伝承された柔術が団野氏へ伝承され、ここで武蔵柔術との関わりが考えられるが、団野氏が大成した柔術が長谷川英信に伝承されて正に無双流体術、無双直伝和義が伝承されていったと言うことなのではあるまいか。
それが今一つの痕跡とも言える証拠には、後に土佐に伝えられた無双直伝英信流の伝書の中に「武蔵守卍石甲二刀」とあり、武蔵の「二刀剣法」との関わりを暗示する記述が残っているのである。実傳としては無双直伝英信流には二刀剣法は伝承されなかったが(秘伝書に「政守先生限にて絶」とある)、これはある時期には存在した形跡であるとも言えるのではあるまいか。これは無双直伝流と宮本兵法との関わりを示す一つの痕跡であると考えるのである。

野村玄意
市橋軍兵衛(団野万右衛門)と百々軍兵衛が同一人物である可能性はかなり高いと思われるが、それだけでは武蔵柔術との関わりが存外曖昧である。武蔵は市橋軍兵衛の門弟の野村玄意と昵懇であったと言うのだから。しかしながら無双直伝流の和根源之巻をじっくり眺めると今一人注目すべき人脈が窺えるのである。傳系には市橋軍兵衛の嫡子、団野軍兵衛のことかと推察出来る万野団右衛門の存在が先ずあるが、この団右衛門から長谷川英信への間に今一人「大加原意信斎幸次」なる人物がいるのである。この人脈は他で聞く事はなく、この和根源之巻のみに出てくる人脈である。その正体は果して何者なのだろう? そして名前をじっくりみていると何か心に響く処がありはしないだろうか。
いかにもしかりであり、名前の中に「原意」→「げんい」なる語が入っているのに気づいて欲しいのである。野村玄意の「玄意」のワードがこの名前の中に隠されていると言うこと。これは果して偶然であろうか。そんなに多くの偶然が続くものなのだろうか? と言うことは如何にもしかりではあり、大加原意信斎幸次とは野村玄意のことではなかったのだろうか。
「そんな馬鹿な、この名前は大加原までが名字ではないか」即座に言われるかも知れない。しかし「大河原」ならばともかく「大加原」などという名字は余りにも特殊でそこに恣意的な思惑が顰んでいると睨むのが妥当ではないかと指摘したいのである。
そして「大加」とは字謎的にいえば「大を加える」→「一人加える」と言う意味合いであり、万野氏から長谷川氏の間の継承者として無理にでも付け加えられた人脈であったのではなかろうか。
名前を分解して秘められた意味合いを無理にでも抽出すると次の如くになる。
「継承者の一人として(野村)玄意を加える。これを信じなさい。そうすれば次には幸がくるだろう」と。
ともあれ和根源之巻の解説ではこの師範は江戸において流儀を大いに指南したらしいのであるが、長谷川英信も江戸で流儀を修行したらしいのである。だとすると野村玄意の伝承した柔術の中に武蔵柔術が入っているかも知れないわけであるから無双直伝和義の中に武蔵傳柔術がある程度入っていても何も不思議ではないと思われる。そもそも無双流「和義」の根源は宮本無二之助一真の宮本体術にあり、その正統継承者である天下の名人、宮本武蔵に出会えば流儀の指南を乞うのは当然の成り行きだろう。
だからそこ無双直伝和義こそが宮本家柔術、引いては武蔵柔術の趣を最も濃厚に継承した流儀ではなかったかと言う想定が立てられるわけである。

変化
今回提出した筆者の仮説の問題点は、資料解析からの妥当性はともかく、各流儀の実際の目録体系の比較学からはそれほどその痕跡を窺うことが出来ないではないかと言うことである。無二之助の當理流も、次代の無双流捕手も、また武蔵柔術、無双直伝和義、柔氣流柔術も讃岐の無相流もそれなりには目録伝書は残っており、それぞれを比較研究することは出来る。それによれば武蔵柔術と無双流捕手、無双直伝流にはそれほどの類似性があると言うわけではない。勿論ここの形名にはそれぞれ幾つかの類似のものがあり、その指摘もできるが、それぞれの系脈を引いていると断言できるほどの酷似性まではないのである。実をいえばこれは武蔵系兵法の大きな問題点であり、新陰流や一刀流、竹内流と言った名流との大きな相違点といえるのである。即ち武蔵系兵法は代替わりすると内容がかなり変わるし、また一代の兵法であっても武蔵などは各年代によって教える内容がかなり違ってしまっている。そして累代継承者の記載に各流儀どうも作為が多い、余りにも多すぎることも気になる。しかしこの点は極めて難しい問題を含むので解析はやはり先送りである。

武蔵柔術の痕跡
色々と随分無茶な想像を交えた考証をかさねたが、結論的にいえば武蔵柔術そのものは実傳としては恐らく既に滅びてしまっているが、その趣と息吹を伝承する流儀として無双直伝流がかつて存在したのではないかという事である。宮本無二之助一真や武蔵の関わった流儀としても確かに貴重あるが、残念ながら居合傳と居合付随の腰之廻り傳を残して無双直伝和義も滅びてしまっている。
しかしながらその内容は信州の絵目録と土佐の形解説秘伝書によって窺う事が出来、またある程度のレベルで復元する事も可能である。極めて幸いなことに形解説は中途半端ではなく、最後の最後の形までの記述があり、流儀の体系の全体像を窺うことが出来るのである。実際筆者はかなりの時間を掛け、完全に古典そのままとは断言出来ないが、最後の最後の部分までの形復元作業は既にこなしている。そしてその中にこそ武蔵柔術の本質がある程度ではあるが、確かに潜んでいるのではないかと思うのである。
そして武蔵兵法を求めて修行した筆者が何故だか無双直伝流に拘り、居合修行を通じて、最後の和義復元までの道に進んでいったかという奥の理由が何となく窺えるのである。そこには成り行き的な部分もなかったとは言わないが、やはり不思議な因縁があった様な気がしてならない。そしてその因縁に気づかされたのは極最近なのであり、これはやはり不思議不思議の出来事である。
しかしながらここまで考えると無双直伝英信流の本体ともいえる居合傳にも不思議な因縁と秘儀があるのではないかという氣にもなってくる。
というのは筆者自身、無双直伝英信流に関しては不思議な縁に恵まれて奥深い形世界を教傳頂く事が出来た。勿論無双直伝英信流が現在日本で最も巨大な居合術流儀であるのであるから師範の層も厚く出会いが生まれるのは当然といえるかも知れてない。しかしながら筆者がここまでのめり込んで修行する事が出来たのはやはり不思議な感じがするのである。

無双と夢想
さてさて次の問題は居合における夢想と宮本兵法の無双との関連であるがこれまた極めて難しい。これが関連ありとすると大変なことになると思えるのであるがいかがだろう。余りにも突飛であり、不思議すぎるが、世の中は逆に不思議な事の方が真である場合も多い。実際年代的には林崎氏と宮本無二之助一真とはかなり近く、全く関わりがないとは思われない。関西圏の片山伯耆守や関口柔心、田宮氏などが学んでいる点を鑑みて、かなり近い処にいた可能性はあるのではなかろうか。そして実はこの部分においても突っ込んで行くとまたまた大層不思議な世界に入って行く事が出来るのである……。
とはいえ現時点でも余りにも突飛な空想説が続きすぎた。ここは少し間合いを作り、諸識者のご意見をお伺したいと思うところであり、居合系の考証は時間を掛けてより資料を充実させて徐々に挑んで行きたいと思うのである。

 

 宮本無二之助一真−−−荒木無人斎−−−夏原八太夫……市橋軍兵衛如見斎−−−団野軍兵衛−−−−野村玄意−−−−長谷川英信
   宮本武蔵
[古流柔術月例会々報題百七十三回]

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