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「無双流3」

前論文
筆者もいろいろな研究論文を書きなぐってきたが、自己が以前に書いた論文を読み直して多くの思い違いを発見して唖然とすることが多く、全く恥ずかしい限りである。このような部分は筆者もさすがに触れたくない部分でもあるが、しかし誤りは正しておきたいとは思うのである。
かつて『極意相傳』第一巻において「宮本武蔵二刀剣法発明説」を否定し、逆に「二刀遣いを実の道にあらずとして一刀剣法、二刀剣法を整備したのが武蔵である」との論説を立てたことがある。
この部分、「二刀遣いを実の道に非ず」という部分は筆者の当時の完全な読み違いであり、誤りである。正しくは武蔵は「刀を両手にて使うことを実の道に非ず」としており、つまり一刀を両手(諸手)にて使うことを否定しているわけである。
そしてまた武蔵が「一刀剣法、二刀剣法を整備した」との論は筆者が現在伝承している山東派二天一流と伊織傳二天一流に一刀剣が付随しており、両流を伝承する立場としての論であったのであるが、これはなかなかに難しい謂であり、どうも武蔵が伝承したのは二刀剣法のみであった可能性も高いのである。山東派一刀剣法は武蔵の死後に制定されたとする資料があり、野田派系では五法(二刀剣法)のみを伝えているようであるから、これはかなり可能性は高いだろう。
ただ資料によると武蔵が二刀剣法教傳の下準備として一刀剣法も教授し、その教傳されたた技法傳を基にして後代に一刀剣法が制定されたとしており、その意味では武蔵は一刀剣法も教授したことになる。しかしやはりそれはそれほど定まった体系をもつ形ではなかったのだろう。
伊織傳二天一流においても一刀剣法が裏表十本伝承されており、この時期には武蔵も一刀剣法を教授していたのではないかと思えるのであり、そのような立場で筆者も著述したのである。
しかしこれも武蔵が初頭より一刀剣法を伊織に教傳していたと言う文献証拠は現時点ではないのであり、資料がない以上は何事も決めつけるのは宜しくないと反省している。
考えてみれば武蔵が一刀剣法を教授したかどうかは非常に難しい問題である。今少し考えてみよう。

証拠
文献証拠として武蔵が一刀剣法を誰かに教傳したと断言できるだけの資料を筆者は提出することが出来ない。しかし、と言って完全否定する資料もあるわけではなく、むしろ状況的には有り得ても全く可笑しくはないのである。と言うのは武蔵は実際の戦いには必ずしも二刀剣法のみならず、一刀剣法でも戦ってきていると思えるからであり、当然一刀剣法も十二分に使えたのであると思う。
武蔵が木刀一本を携えた十三歳の頃の絵図も現存している。
しかし武蔵の二十二歳の頃に発行した『兵道鏡』の解説は全て二刀剣法の形であり、この点は矛盾するが、一刀剣法教傳を記した伝書が発見されていないだけであるのかもしれない(村上派の資料にそれらしい事が出ており、その中には教傳した一刀剣法の目録も掲載されている。ただし肝心のその資料原文を未だ拝読できないでいるのでそれ以上の詳しい事は分からない。この点は後でまた考証してみよう)。

二刀流の発明者
筆者は『極意相伝』の中で「武蔵は二刀流の発明者はではない……」と論考の最初で述べた。しかし論証の結論は「ではない……ようだ。発明者ではない可能性が濃厚である」言う研究者の最後の言い訳の謂を残したことには注意していただきたいのである。筆者の謂は武蔵が「二刀流を発明した」のではなく、「養父が主体する剣法が二刀流剣法であった(可能性が大である)」と言うことを論証したのである。
しかしながら筆者の論に対して「二刀剣法が武蔵以前にあったと言っても二刀剣法を主体とする、まさに二刀の一流を打ち立てたのは武蔵であり、武蔵こそは二刀剣法の大成者に間違いなし」との論難があるようなのである。そんな謂と論旨は筆者にも理解できるが、ゆえにこそ筆者は養父の剣法(當理流)が二刀剣法を本体とする剣法である(らしい)ことを資料を尽くして論証したのであり、それを無視して論証されては困るのである。勿論筆者の論証はある研究レベルにおける考察であり、當理流が完全な二刀剣法であると証明出来たわけではなく、あくまでも筆者の伝書比較による推定であり、その前提条件の基に「武蔵が二刀剣法を発明したのではなく、その業績は養父以前になされたものであるらしい」と言う論証をなしたわけであり、それは筆者の論文をちゃんと読んで頂ければ理解して頂けると思うのである。

別の可能性
筆者もある程度の資料によって推定したが、勿論別の可能性が全くないわけではない。
當理流の内容が二刀剣法を主体とするらしいことは、無二之助の二代目、三代目の発行した資料比較によって導きだしたことであるが、代数が若干下るので確実性に欠けるかも知れないと言えばその通りである。
まず第一に二刀剣法を伝えていたとしても、一刀剣法も伝えていなかったとは必ずしも言えないことであるのかも知れない。また二代目、三代目の資料には現れていないようであるが、別伝書として一刀剣法の伝書類がなかったとは言えないからである。また図説されていない目録部分の形技術が一刀剣法であった可能性も完全否定は出来ない。
そしていま一ついえば三代目の二刀剣法は武蔵二刀剣法の影響という考え方も全く出来ないわけでもない。伝書系図には武蔵の入り込む隙はないが、武蔵は無二之助の養子なのだから二代目と兄弟弟子ともいえるし、道場の若先生であった可能性も高いだろう。
しかし物事は想像力を働かせればどんな想定も出来るのであり、ここまで考えると歴史的考察など畢竟無意味となり、やはりある程度は資料を照らし合わせ、状況証拠から妥当な想定を考えて行くべきだと思うのである……が、いま一つ試考してみよう。

先代
筆者の「武蔵は二刀剣法発明者に非ず説」に対していろいろな論難を頂くことはまことに結構であり、筆者も勉強になるが、それらの論説が多くの場合、當理流剣法の本質に対する考察が殆ど欠如していることを遺憾に思うのである。當理流剣法が二刀流を体する剣法であったとするならば筆者の論はかなりのレベルで主張出来る論であると思うのであり、當理流剣法の本質をある程度のレベルで推定、確定した上で論説を立てて頂きたいと思うのである。
勿論捉え様によっては「當理流剣法は二刀剣法も伝えたかも知れないが、一刀剣法や十手術、捕手なども伝えており、それを二刀専門流儀にしたのが武蔵だ」という論が立てられないわけではない。
ただ當理流の本質を探求すると一般流儀にみられる様な、一刀剣法を主体としながら奥傳として僅かながらの二刀剣法を伝えていたいう様な生易しい体系ではどうもなかったように感じられるのである。そしてそもそも無二之助が一刀剣法を伝承していた事が論証された事はないのである……。
三代目の二刀剣法を描いた絵目録をみると、この流儀が手数の多い、ベレルの大変に高い大きな体系の二刀剣法傳を伝承していたことが判明するのである。早い話が、武蔵が残した五法の形よりも本数も遥かに多い立派な体系がここに既に現れており、このような存在がある以上は「武蔵二刀剣法発明説」に疑問符を付けざるを得ないということなのである。

本数
全ては程度の問題ともいえるが、武蔵は晩年には五法しか残さず、また青年期にはそれよりも本数の多い二刀剣法の体系を教授し圓明流を名乗っていたが、しかしながら當理流二刀剣法の方がそれ以上の本数をもつ大きな体系を誇っている(と伝書比較によって思われる)のであり、しかも圓明流は内容的にその源泉である當理流から来た技法傳を基盤にしていると観察される。この様な伝書比較をなした時、安易な「武蔵二刀剣法発明説」には筆者としてはなんとも首肯し難いわけである。
総合武術という立場からは勿論武蔵も「柔」も伝えているし、手裏剣術も伝えた。若いころのみならず肥後においても古橋某には二天一流柔術を伝承している(綿谷氏の研究論述による。古橋系の武蔵傳柔術については要調査)。
その他の武芸については余り資料なく定かではないが、武蔵自身はかなりいろいろな武芸に長けていたのではないかと考察できる。

若さ
武蔵が二刀剣法の発明者であるという論に筆者が疑問に感じるそのよりどころの一つとして武蔵の剣法が青年期において既に二刀主体の流儀を教傳しているというかなり驚くべき事実があり、この点を無視してはいけないのではないかと思うのである。
武蔵は一刀遣いも二刀遣いもそれなりに学び、後の武者修行と多くの真剣勝負を経て、ついに二刀流(二刀遣いを主体する剣法流儀)を編み出したというのではなく、二十一歳の若さで二刀剣法オンリーの流儀を伝承していたということに武蔵研究史家は本来もっともっと驚かなければならないのであり、ここに真相を解く手掛かりを見いださなければならないと思うのである。
いかにしかりであり、武蔵は確かに早熟の天才であったが、この時期に二刀剣法を主体とする流儀を教傳していたということは武蔵剣法の源泉ともいえる當理流こそが二刀剣法を主体する剣法であったのではないかと考えるべきなのではなかろうか。この点における状況証拠は多くあり、たとえば無二之助を「十手二刀の達人也」とする文献はかなり多いことにも注意しなければならず、また『海上物語』の記述によれば夢想権之助にあったおり(二十代の半ば位か?)は「自己の剣法は父、無二の剣法と同質のものである」としているのである(という事は当時の武蔵の剣術は二刀剣法主体であったのだから無二之助剣法もそれと同じという事になるではないか)。
そしてその術理は養父の流儀を通しながら、その源泉の源泉はより深く、家傳流儀の遠祖とも称すべき源義経剣法にありという意識が武蔵にあったのではなかろうか。
実をいえば義経剣法の時代に二刀遣いの技術が既にあったとみられ、後世の義経剣法の図には結構二刀遣いを描いたものが多いのである。ゆえにこそ義経兵法の末流を継ぎ二刀遣いを得意する武蔵は青年期に義経の諱を唱えたわけである。

二刀一流
武蔵の晩年の剣法は二天一流を唱えていたが、狭義の使い方としては二刀一流という流名も用いている。
二刀一流の一流とは美称として付加された謂であるからこれは、二刀一流とは二刀流のことにほかならず、ゆえにこそ「武蔵はまさに二刀流の発明者(開祖)」ではないかといわれるならばこれはこれでその通りであり、一面的には正しい謂だと思う。
しかし二刀流の謂には単なる固有名詞としての流名の意味合いのみならず、二刀剣法の謂を表す言葉として用いられるわけであり、その意味の立場において筆者は「武蔵は必ずしも二刀流(二刀剣法)の発明者とはいえないようだ」と唱えているわけなのである。
ただ勿論武蔵が晩年期において五本の二刀剣法オンリーの特殊な流儀を伝承したことは事実であり、それこそが武蔵が、長年の修行の果てに見いだした自己の兵法極意として示し残した大極意傳であるといえるである。しかし本数としては極めて少なく、この業績のみで二刀剣法の大成者となすのは少し苦しいのではなかろうか。また青年期の武蔵の二刀剣法の体系も伝書比較をなすと當理流からの傳をかなり採用しており、体系的にも當理流二刀剣法を凌駕するものではないと判定出来るのである。ただ武蔵は青年期より晩年期にかけて極めてレベル高い剣術技法テキストを著述しており、内容的にはそれは二刀剣法の理論書ともいえるもので、この業績を鑑みると二刀剣法の理論的大成者といえるかも知れない。

二刀兵法家
多くの資料をみて来た立場で観察すると宮本家こそが古伝の二刀剣法を継承し、そしてまたその二刀剣法を主体、本体とする驚くべき二刀兵法古家なのではないかというのがある研究レベルにおける筆者の観察なのである。そして技法傳の工夫と進化、実戦、理論書の著述などの業績を合わせて、日本傳二刀剣法は無二之助、武蔵の二代で江戸期初頭に大成されたとみるのが妥当ではないかと思われるのである。武蔵の業績は特筆すべき事項であり、大賛美する事に決して吝かではないが、宮本家兵法の本質と無二之助の業績を無視した論考はいかがなものかと思われるのである。
しかし當理流の本質が完全に判明しているわけでは未だなく、不詳な部分が未だ未だ多いのかも知れない。
今回はいま少し當理流の本質を資料から探求してみたいと思うのである。

伝書
まず當理流の伝書であるが、無二之助直筆の伝書としては三通ほどが知られており、少なくとも一通には流儀の体系が記され、公開されている。残りの一通は真言と著名、宛て名のみ。後一通は年代や宛て名は判明しているがその実際内容は公開されていないようである。
内容が判明している伝書は水田無右衛門に発行されたもので、そこには確かに流儀の体系が現れている。
内容は形目録であるが、二代目、三代目の資料と照らし合わせると内容的に大体が二刀剣法の伝書であるらしいことが判明するのである。この資料を見た限りでは無二之助は武蔵と同じく二刀剣法を得意とした剣士で當理流とは二刀剣法主体の流儀の様にとらえることが出来ると思う。
ただ完全に當理流が二刀剣法の専門流儀と言い切れないのは、体系の中に小太刀の教傳があることと、それに最初の部分は一刀剣法を教えている可能性もないとはいえないことである。これは非常に解析の難しい部分であるが、しかしそれにしてもかなりレベルの高い二刀剣法の体系を示した資料であることは事実である。
そしていま一つの問題点はこの資料に高度な二刀剣法の体系が現れているとしても、発見されいない別の資料に一刀剣法が(初伝としてでも)存在していた可能性も否定できないともいえる。
當理流における一刀剣法教傳、それはあったのかなかったのかという問題は非常に難しく、やかましく議論するより伝書を探ったほうがよいだろう。
それを考察する資料としては二代目の水田無右衛門の発行した伝書などが残っているのであり、他の資料も含めて徐々に考察して行こう。

直筆体系
先ずは水田氏に発行された直筆伝書目録における考察をいま少しなしてみよう。これからの伝書比較考察は翻刻された伝書を現紙面であげた方が分かりやすいとは思うが、これらは既に『極意相伝』でなした業績であり、紙面を重複して使うのは忍びないので、必要な部分は読者に『極意相伝』一巻の翻刻文などと照らし合わせてこれからの考察を聞いて頂きたいのである。
比較する伝書としてまず次の五巻をあげてみたい。
『@直筆水田宛伝書』と『A和介田伝書』『B荒木伝書』『C兵道鏡』『D水田無右衛門発行伝書』

@ABは『極意相伝第一巻』に翻刻があり、Cは複数の武蔵研究書籍に掲載されているからそれほど確認するのに苦労はないだろう。Dは田中普門先生の『古流剣術概論』に掲載されいる。これらを比べてゆくとAとBはかなり類似しているが、@とAはある程度異同がある。しかし全く異質ではなく、やはり@からの同形名もかなりあり、内容的な関連を窺う事が出来る。
さて問題の一つとしてABが先ず二刀剣法主体かどうかと言う事であるが、Bの最初の七本ほどの形は一刀剣法であると言う可能性はあるかも知れない。
Bにおいて二刀剣法絵図が描かれているのは目録中途にある十二形で、後の七本の奥傳部分も「二刀」との記載がある。可能性は前の七本ほどが一刀遣いで、後の十九本が二刀遣いの可能性はないわけではない。しかし目録名的に考えると筆者はこれはどちらかといえば否定的に考える。なんとならば「過現未」と「喝咄」の二本の形名が二刀剣法目録の中にも見える。だから最初の部分も二刀剣法の形であった可能性のほうが高いのではないかと思うのである。いま少し理由を上げよう。

❶体系的に●一刀剣法七本●二刀剣法十二本●二刀極意剣法七本と言うあり方は不自然な感じがする。そしてもしこのような体系であったとすると、最初の七本は二刀剣法を学ぶための基盤と考えられ、全体を通じて二刀剣法主体の流儀と解釈出来る。
❷前の七本の内の「過現未」は@伝書にも見えるが、「差合伐」「飛當剣」との間に見える形名で両者二刀剣法の技術を伝える形名であるので間にある「過現未」も当然の事ながら二刀剣法の形と言う事になる。と言う事はやはり伝書の最初の部分も二刀剣法の技法傳である可能性が高いと思われるのである。
❸最初の「同面之事七本」の最後は「三拍子」となっているが、これも@伝書の「差合伐」の下に書かれており、二刀剣法系の名称と判定出来るのである。

いずれにしろABの資料に現れた体系は(百パーセントの断言は出来ないが)、二刀剣法オンリーであると観察出来る。
ただこの場合、他に一刀剣法の伝書がある可能性も考えられる。しかしながらBは単独ででてきた資料であるが、Aは比較的まとまった形で出て来た資料の一端であり、他にも無二傳の捕手や小具足の伝書やあり許状がある。しかしその中に一刀剣法の伝書は見当たらず、伝書の現存状態から判定するとこの系統は二刀剣法と和術(捕手・小具足・縄)などを継承し、一刀剣法傳は伝えていない可能性が高い。

水田宛伝書の本質
次に@の体系であるが、結論的にはやはり二刀剣法の伝書ではないかと考察できる。理由を箇条書きにあげてゆこう。

➊最初には「三学」として三本の形名があり、「差合伐」「過現未」「飛當剣」となっているが、これらは二刀剣法傳とあると判定できる。特に「差合伐」と「飛當剣」は圓明一流や鉄人流などにも見える二刀剣法の中でも古典的な形名である。伝書体系の最初に紛うことなのない二刀剣法傳が見える事は一つの留意点である。
❷次の「搏変」三本も二刀剣法傳と思われる。「陰之位」「陽之位」も圓明一流や鉄人流などにも見える二刀剣法の中でも古典的な形名である。つまり最初の六本は二刀剣法傳であると言う事になる。
❸次の「奥義」六本も二刀剣法系の技術であると考察できる。なんとならば「勝味位」はABの二刀剣法傳にある「勝身」に比類出来るし「有無二剣」や「真是極一刀」は武蔵剣法に引き継がれた二刀剣法系の技術である。「実手白刃取」の本質を確定する事は難しいがAの二刀剣法系の技術傳と考察出来る部分の最後の「白刃之大事」にあたる技術傳と思われ、また圓明流や鉄人十手流などとの内容比較から推定すると刀と十手を用いた十手二刀術系の技術ではないかと思われる。これは無二之助傳の二刀剣法の一端なのである。
❹次の「秘極六本」の本質は若干確定しにくいが、「陰車伐」「陽車伐」「陰之変伐」「陽之変伐」などの形名は二刀剣法傳と確定される「陰之位」「陽之位」の変化技かと考察出来る形名である。そしてこれまで二刀剣法傳が続いて急に一刀剣法傳が出てくるのは不自然であると思うのであるが如何なものだろう。
❺次の「三剣車」三本の内容は残念ながら確定出来ない。ただ二刀剣法傳が続いてこのような位置に一刀剣法傳が入る事は不自然であると感じられる。
❻次の「妙極」五本は二刀剣法傳と考えられる。「真之位」「光明真剣」などは圓明流や鉄人十手流にも見える形名で伝書比較から二刀剣法傳と考察できるからである。
❼最後に極意傳が三本あるが、「是極一刀」は武蔵に引き継がれた技法傳であり、「一刀」とあるけれども最後に二刀になるやはり二刀剣法系の傳である。後の「當詰」は分からない。當身系の捕手技術かも知れない。最後の「早縛縄」はそれに続く「早縄」であろうかと思われる。いずれにしろ一刀剣法傳ではないだろう。後に小太刀五本が付随している。

以上@伝書の内容について推定してみた。必ずしも断言出来る事ではないが、全体を通じて二刀剣法が中心で一刀剣法は伝えていない可能性が高いのではないかと感じられる。恐らく殆どが二刀剣法傳で(一本だけ十手二刀術が入るのではないかと思われる)、最後に居合的な當身を伴う捕手が入り、早縄を教え、それに小太刀術が付随していると言う体系であったようである。この伝書が當理流が全体系であるとすると、ほぼ二刀剣法を主体とした流儀であると判定できる。このような資料解析からも筆者は武蔵二刀剣法発明説に疑問符を投げかけて来たのである。ただ何事も断言は出来ない。後一つは當理流にこの伝書とは別に一刀剣法伝書があったのではないかと言う可能性である。次回はこの点を追求してみよう。

[古流柔術月例会々報題百七十四回]

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