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●第二ラウンド「迷い」

生誕地問題を考えて迷うことが多い。常に原点、原典に帰りつつ見直して行かねばならないだろう。また場合によっては前説を撤回すく勇気も必要かと思われる。しかし播州説に帰るには米田説では伊織自身が「義父が田原系である」という事を全く書き残していないという大きな問題があり、この壁を乗り越えるのは難しいと感じられる。『播磨鑑』にもそのような記述はないのである。伊織は祖父、祖母の墓を建てており、没年を確定している。このおりに武蔵の父母であるという意識があるならばいま少し没年を吟味すると考えられる。その意味からは武蔵が叔父であるという意識は伊織には全くなかったと解釈されるのである。

『播磨鑑』においての宮本村から宮本村への移りの不自然さの問題が引っ掛かり管理人も少し認めにくいのである。

 

●播州武士、新免無二

黒田藩の記録では宮本無二を「播州、新目無二」と記録している。無二も想定では美作生誕と思われるが(※)、血筋を重んじ播州武士と名乗っていたわけである。武蔵も同じ心であったと思われるのである。思うに武蔵が「生国播磨の武士……」と書き残した事から全ての迷いが始まっているのである。この不正確(?)な謂が全ての迷いの原点であり、後世の播州伝説はここから派生していると考察できる。やはり文章というものは正確にも正確を期さなければ後に禍根を残す事になり、筆者もよくよく自戒しなければならない所であると思う。

 

(※ 平尾家資料によると数代前の平尾民部太夫のおりに作州吉野郡に移住している。というとは平尾無二は作州生まれという事になる)

 

●平田系図

作州説の最大の問題点は平田家系図の信憑性だろう。白岩文書では武仁の娘としておぎんの記載がある。これは平尾無二と混乱があり、という事になると一子武蔵という謂も平尾無二との混乱の可能性があるわけである。とは言え、平田系図、平尾系図の両方、特に養子という記載があるわけでない事は強く注目しなければならない重要な点である。伝聞記述で二人のムニを混乱したとしても伝聞の中には「養子」というワードは存在しなかったわけである。また無二がお政と数年でも愛し合い、後妻に迎えたとするならば武蔵は養子ではなく連れ子である。そして武蔵が平尾無二の実子であるとしてもこれは作州生まれという事になり、作州説としてはこれでも構わないわけである。武蔵の養子説は根元真正文献にはなく、強いて上げれば伊織の泊棟札のみなのである。ただこれも胡乱な記述で無理やり解釈するならば平田武仁の実子を平尾無二が養子とした事を暗示していると考える事が出来るのみである。

伊織の記述は完全には解釈出来がたいが、平尾無二が平田武仁の武道を継承したことは間違いないだろうと思う。双方宮本ムニなのだから。あとの事(武蔵の出生の事など)は男女の機微が絡みややこしく伊織と雖も確言出来なかったという事だと思う。しかし仮令何方であったとしても作州生まれは動かない。

播州生誕の二説に前述して来たような乗り越える事の出来がたい壁がある以上は作州説を支持するのは当然の事であると思うのである。

 

●伊織文献

思うに当時の状況を示す最高の資料は伊織の泊棟札書である。

ただこれをどう読むかが問題である。胡乱な記述であるというものの率直にやや補正しながら読むならば平田武仁が天正年間に亡くなり、その武を受け継いだ平尾無二も後に秋月城で亡くなる。その武と家名を受け継いだのが宮本武蔵である……という事意味合いになる。ここには武蔵の血脈、出自の文言はないが、他家からの出自の記載がない以上は武仁の遺児か無二の実子かと解釈するのが妥当であり、自然かと思うのである。そしてよくよく読み込むならば武仁の遺児という立場の方が妥当だと考える。

「嗣なく……卒す」とあるが、これは事実で武蔵は武仁の死後の出生とするならば正しい記述である。

「遺を受け家を承くる……」とあり、これは実父から実伝を得られなかったという意味合いが入っており、高弟であった義父から武道と名跡を継いだという事であると解釈されるのである。

これは平田系図と平尾系図文献の伝承と大体は一致し当時の様子を伝えている。これ以上の微細な真実は新たな文献が出たときに補正すれば良いと考えるが、作州説はそれほど動く事ないのではなかろうか。

 

●「天正の間」

平田家系図は胡乱な資料で信用できないと言われるならば、確かに平田武仁の正体は他の資料が少なく、これだけでは実子説を主張すのは難しい。しかし此処で泊文献をみていただきたいのである。「天正の間、無嗣にして筑前秋月城に卒す……」この一文を何故に伊織が撰したのか。何故に天正年間なのかという事。これは無限に重みのある一文言である。そして何故に「嗣子なく……卒す」ということ。実を言えばここにこそ平田武仁口伝承が影のように隠れていると筆者は睨むのである。武蔵に最も近しい男の最も古い時期の真正の記述であり、武蔵の本質を示す最高の第一次文献として決してないがしろに出来ない部分である。天正年間に亡くなった者こそ平田武仁であり、ここにこそ武仁の影が見える。「嗣子なく……卒す」とは正にその通りで平田伝承がそのまま伝えられている。

「遺を受け家を承くる」武仁の死後の遺児である武蔵は武術の実伝は直接受けられなかったが高弟にして武仁の名跡を継いだ養父を通じて武仁の武術遺産、家伝武術を継承したのである。

この部分にこそ武蔵の本質がある。かく記述がある以上は武蔵は田原甚右衛門の嫡子ではありえないと考える。

 

●「遺を受け家を承くる」

「いや、泊資料に平田武仁の影があっても『嗣子無く』といっているのであり、武蔵の実子ということはいっていない」という論もあるだろう。しかりであるが、偉大な武芸者、平田武仁の存在があり、平尾無二が義弟の高弟として武術と名跡を継いだことは想定できる。

そして偉大な武芸者、武仁の「遺を受け家を承くる」武蔵の正体は余所からの養子ではありえにくいと考えるのである。そこに血脈的な必然性と強烈な故人の遺志の存在が感じられる。そして吉野郡宮本村の古文書類との比較類推により、武蔵平田武仁実子説が完成するのである。

 

●平尾無二斎実子説

もし平田系図を胡乱とし、平尾無二と混乱しているとするならば、平尾無二斎実子説でも確かに矛盾はない。泊文献の謂は武蔵が平田兵法を家ごと継いだことを述べているわけである。何方であるかは管理人も現時点では確言出来ないが、田原家系論は泊文献では出て来ない、いや逆に暗に否定した文言であると考える。

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