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●武蔵剣法との出逢い[1]「小松信夫先生の二天一流」 地元近隣の剣豪、宮本武蔵の本質を追って作州の武蔵の里に訪れてから三十年以上になる。そして最初に二天一流の手解きを頂いたのは神戸の須磨の小松信夫先生であり、管理人の実家の近隣であり、自転車を遣って当時何度も自宅に訪れて自宅や公園でご教授を頂いた。 先生は当時剣道に如何に二刀流を活かせるかを考えておられ、どの様に竹刀で二刀剣法を表現し試合をこなせるかを工夫されていたが、二天一流は一刀剣法も伝えていたから必ずしも二刀に拘る必要はないとも言っておられた。 それはともかく先生の繰り出される二天一流五方剣法という不思議な形の格調の高さは理解できたが、実際技法としては疑問が残った。映像や小説で表現される武蔵剣法とのギャップに悩んだのである。何よりも本数が少ないので一つの流儀としては体系として少し学びにくいのではないかという感じも受けた。何せ本体である二刀剣法傳は五本しかないのであるから。 古流武術の体系は本来膨大な教傳量があることは慈元流や渋川流などの学びを通じて理解していたので五本でおわりというのには少し困ったのである。 確かに形数の多いことを嫌う事を武蔵は言ってはいるが、それにしても少なすぎるし、第一に渋川流では二刀剣法傳が九本ほどあり、この点だけでも渋川流の方が多いのである。となると二刀剣法の専門流儀として少し情けないように思われた。 何故にこのような実態であるのだろうか。ひょっとしたら武蔵剣法も明治以降にかなり多くの部分が失傳してしまったということなのであろうか。長谷川英信流などもかなり失傳が多いことが分かっていたのでそのようにも感じられたのである。 しかし調べてみるとなお一層驚くべきことが判明した。熊本傳二天一流は二刀剣法と共に一刀剣法、小太刀が伝えられているが武蔵がこれらのものを伝えたわけではないということである……。[続く]
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