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作州宮本村再探訪記[16・1・20]

三十二年
昭和四十六年か四十七年か、記憶が若干定かでないが当時武蔵剣法に熱中し、思い余って吉野郡大原宮本村を訪れたことがある。当時はかなりの田舎で電車もバスも通じておらず、確か佐用駅から歩いて峠越えをして村にたどり着いた記憶がある。改めて地図をみると佐用から十キロ以上あるが、三時間ほどで歩いたのだろう。当時の記憶が蘇る……。そしてとにかく全く何も様な所であったが、それでも神社や墓、顕彰碑などがあり、そして生家と言われる平田家を訪れると、ある意味ではそこが当時武蔵資料館の様な形態になっており、平田家のおばさんが迎え入れて解説をしてくれた。今から考えると当然複製であったかと思うが、武蔵の絵図などを拝見し、特に枯木鳴鵙図の枯れた筆タッチには武蔵の深い剣境を見せられた思いで認識を新たにした覚えがある。但しこれは今日では「伝武蔵」とも言われ、直筆論争が多少ある様である。筆者の様な絵心のないものには判定できないし(筆者の絵音痴はかなりものである)、単に職人の技に驚かされたのみであるかも知れない。それに驚いたことは驚いたが実を言えば筆者の関心はかくした絵図になく、平田家で最高に目を奪われたのは同家にあった二刀剣術の彩色絵伝書である。枯木鳴鵙図は凄いといっても所詮モノトーンであり、それに鳥の絵を見ても仕方がない。
武術伝書の方は実際の剣術技法図が彩色で丁寧に多数描かれた冊子本でこんなものが武蔵の時代にあったのかと驚いたのである。古木の方は(恐らく)複製であろうが、この冊子本は(殆ど間違いなく)本歌である。当時は極めて単純に武蔵が描いた剣術指南書の様に思えたのであるが、恐らく後代の資料だろう。それにしても写真に撮っておけばよかったのだが、当時はその様な伝書を撮る技術を保有しておらず、その反省を込めて以後接写写真の技術を研究することになる。

正体
その伝書は今から考えると恐らく鉄人十手流系の伝書ではなかったかと思える。ただ十手流は巻物形式の伝書が多く、その意味では珍しい。冊子本は縦長のものが若干知られるが、平田家にあったのは横長形態のもので、他ではみたことのない伝書であった。ただそれも現時点での想像であり、実際は作成された系脈は不詳である。記憶によると何処かの大手の出版社の武蔵特集本で一部の写真が出たことがあった様な気がする(書庫をひっくり返さないと出て来ないのだが)。

研究
三十年前の武蔵村訪問を皮切りに武蔵研究は筆者のライフワークとして続けてきた。最もそれが専門というわけではなく筆者の眼目は武術全般と江戸期の科学技術史の探求が中心であり、武蔵研究はその中の一端でもある。以後東京に移ったこともあるが、絶えて宮本村に向かうことはなかった。国(神戸)に帰ることも多かったが何故か西北に足が向くことない。これは何故かというと自分でもよく分からない面があるが、後の武蔵の研究をなすとどうも作州宮本村生誕というのは小説上の話しであり、実説はどうも違うらしいのである。というのは当時の武蔵研究書籍は殆ど武蔵作州生誕説を否定した論調が強く、大体が播州生誕を正説として紹介していたのである。しかも平田家の所蔵のものは殆ど武蔵作の模造品であり、その意味では作られた生家ということになる。
以後何度かの地元の努力によって線路(智頭急行)が轢かれ、宮本武蔵駅まで作られて随分訪問しやすくなったが筆者自身はそれが真でない以上は何とも改めて訪れる気にはなれなかったのかもしれない。

プライド
公刊書では武蔵の作州説を否定し、播州説を強弁的に称えることが多く、それも綿谷翁の様な大考証家までがしかりなので、後代の自称研究者(先代研究書の写し屋さん)たちも大体がこぞって播州説を合唱している。そもそも武蔵自身が「生国播州」と述べているのでこれは確かに一言千金の重さである。
しかし筆者自身その様な論説に流されて播州説的な考え方にある程度染まった時期が決してなかったとは言わない。しかし筆者も武術史研究家としてのプライドがあり、自己で検証していない以上は人の論説を鵜呑みにする様なことは殆どして来なかったという自負がある。よっていつの時も播州説に心が傾きながらも武蔵解説原稿で武蔵生誕問題に触れる時は今まで常に「武蔵生誕問題、未だ解決せず」と著述し続けてきたのであり、このスタンスは今も変わらない。今は逆に作州生誕説に筆者自身は傾いているが結論が出たわけでなく、何事も断言しようとは思わない。

技法
実を言えば武蔵の生誕問題は筆者の絶対の関心事という程ではない。筆者は武蔵剣法の一伝承者なので、関心事は武蔵剣法の技術である。特に技術史的な部分は興味があり、大分新資料も見いだしてきたし、それを提出し、その本質をある程度明らめてきた。随分強引な論説も、またかなり跳んだ新説、珍説も開示しきた。しかし常に筆者における考察、観察としてそれなりに資料を提示しながら発表してきたことである。

最新研究
生誕地問題は絶対の研究対象ではないとは述べたが武蔵は筆者の伝える剣法の流祖の出自の問題であり、その意味では重要な命題である。雑誌に発表する論文には「両説未だ決着せず」と書き続けたが、去年は大河ドラマで武蔵が始まったこともあり、便乗本が多数でた。屑の様な本が殆どだが中にはある程度の業績本も多少ある。しかしその様な研究書も論説はかなり出鱈目なものが多く、生誕地問題の解釈は無茶苦茶なものが多い。
思うに武蔵研究者にまともな学究の徒がおらず、人の業績の盗作と論の剽窃ばかり考えているのだから困ったものである。
しかし長期に渡って武蔵研究書を見てきた立場で、その様な論の歪みも大体は把握できるし、またそれを通じて武蔵資料の原典に触れ、改めて生誕地問題に考えさせられた。
筆者も現時点でも断言はできないが、色々な論を見てきた立場で判定を下すならば、筆者としては作州論の方が妥当な解釈ではないと感じるのである。
その意味も含めて今の研究状況は余りにも異常であると思う。筆者の研究としては先ず眼目であった武蔵剣法の本質は何とか大体は把握出来たわけであり、武蔵研究の一段落がついたわけであり、次には生誕地問題にいよいよ取り組んでゆきたいと考えたのである。

来訪
その研究も単なる俗気本を集めても致し方ない。とにかく研究には第一次文献が必要である。生誕地問題における文献蒐集の為に作州宮本村の再訪問を思い立ったのである。
正に三十二年ぶりの来訪である。神戸の実家に先ず帰り、そこから宮本村に向かうが先ずは姫路から姫新線に乗って佐用まで向かう。昔はそこから歩いたが今は智頭急行があり宮本武蔵駅まで一直線である。しかし「宮本武蔵駅」というのも凄いと思う。日本の剣豪、武術家で駅名にフルネームをその儘冠された者は武蔵のみだろう。常識的にも宮本駅とかの選択肢もあったかと思うが正に宮本武蔵駅を選択したのは凄いことであり、地方役場の意気込みを感じる。その意気込みで大武道館や武蔵像、武蔵資料館など様々な施設を作ったことは見事な郷土愛で素晴らしいことと思う。ただやや苦言を呈せば設備の立派さは分かったけれども武蔵生誕地という基盤をいま少しソフト面からもしっかりと固める作業をいま少し進めるべきかと思うのである。
逆の見方をすれば公刊書における作州生誕否定説は問題であり、それらに何故に反論、もしくは告訴までをしないのかと正直に思うのである。勿論これは本来純粋に学術問題であり、告訴などということは穏やかではないし上品な話しではない。また、それでは丸で逆に播州説を学術的には認めたことになりかねないとも言えるであろう。
しかし何もなさないというのは全く情けない話しの様に思われる。
なんとなれば播州説とはそれほど磐石で容易に反論できないほどのものかと言えば決してそうではなく、筆者の見る限りそれほどのレベルのものはなく、そもそもかなり幼稚な論の積み重ねが殆どであると思うからである。それに論難することはさして難しいことではないと思うし、ましてや多くの原典資料を保存している作州宮本の地としては最も遣りやすいことの様に感じられる。不思議と言えばこれは不思議な光景である……。

資料館
色々な思いをこもごも交差しながら嘗て歩いた道を進むと標識もあり、目の前に大きな武道館があり、目標に事欠かない。武蔵資料館をざっと観たが、内容的に少し武蔵の上っ面を撫でたのみのようなきがする。ただ筆者の武蔵剣法の最初の師である小松信夫先生が寄贈された鉄舟の書の屏風などがあり、懐かしさが込み上げた。ただ苦言を呈せばこれも余り武蔵と関係がないと言えば関係ない。
そして筆者の求める宮本村の根元資料は殆ど見受けられない……。受け付けで聞いてみるたが、よく分からず、ただ役場にあるかも知れないと大原市役所の場所を教えて頂いた。そこはあとで向かうとして再び三十二年ぶりに武蔵の生家や讃甘神社、武蔵や平田武仁、お政など墓を確認し、墓前に手を合わせた。それから役場に向かうことにするが、地図に近場のように書いているが、よく見ると役場は大原駅前である程度の距離がある。電車はあるが、東京都とは違い電車を待つより歩いた方が早いだろう。冬空を歩いて一時間弱で役場に到着した。受け付けで尋ねてみたが中々に要領を得ない。中々に話しが繋がらないが、やっと市町史編纂室を紹介頂いた。しかし役所として武蔵研究を専門になしているとうことでもないようであり、ここでも全ての武蔵資料が揃っているというわけでない。幾つかの武蔵解説書や古い資料を示されたが、武蔵研究の立場からは少しもの足らない。しかし此処で地元の武蔵研究者を紹介頂いた。それは何と今見てきた武蔵の生家、平田家の前にある武蔵の養父と言われる平尾家のご当主であられる平尾正裕先生である。つまり天下無双と称賛され大兵法家、十手二刀の達人、宮本無二斎一真の子孫であられることになる……。

再び宮本村へ
やっと大原役場まできたが早速武蔵の生家に再び向かい平尾先生の謦咳に接することが出来た。
突然の訪問であったが、色々話しを聞いて頂き、今の武蔵研究界の状況を話したが、筆者の疑問に対して先生が共著で最近だされた『宮本武蔵を考える』を示され、その中の船曳正弘先生が著された武蔵生誕地論文を勧められた。同書はもう在庫がないということであったが、一冊贈って頂いた。その内容の分析に就いてはホームページの生誕地問題の方に述べておいた。
とにかく武蔵生誕の地にちゃんとした研究者がいらっしゃったのである。
船曳論文の良さは資料に非常に真面目に向き合っておられ、非常に妥当な捉え方をしていることである。一般の公刊書は殆ど屑だが中には多くの資料を駆使し、分析した労作もある。宮本村にはその様なマニア的に研究者は余りおられないようであるが、正しい認識を以て正論を淡々と示されていることは結構なことである。
しかしながらこの様な書は殆ど一般に流れることはないし、また武蔵の研究書として断片的である。もっともっと武蔵生誕の地として地利を生かして根元資料を正しく網羅した優れた研究書をこれから期待したいと思う。
特に宮本村の古家に残った古資料の整理と保存は役場の仕事として必須のことであると思われたのである……。

  宮本村
大原市宮本の地であるが山の風景は三十年前も変わらず、恐らく四百年前も変わってはいないのだろう。
  武蔵武道館
三十年前は存在しなかった武道館。此処で剣道大会が多く行われる
  武道館のオブジェ
大小二刀の切っ先を象ったものだろうか。間にある球は何の象徴だろう。
  武蔵道場
二天一流を錬磨する武蔵道場。ここは三十年前も存在したと思う。
  武蔵道場内
  宮本武蔵銅像
武蔵道場前の武蔵の銅像。やや苦言をていせばこの様な構え二天一流にはない。
  宮本村平田家
武蔵が産まれたと言う平田武仁の実家。管理人が三十余年前に訪れた頃は武蔵資料館の役割を果たしていた。
  平尾家
この家が平尾家で宮本無二斎の実家と言われる。
  讃甘神社
平田家の正に前にある讃甘神社。神社、神宮の本にあるからこそ宮本なのである。この神社の祭りの太鼓の撥捌きをみて二刀流を工夫したという。ただ二刀流を使っていたのは宮本無二の代からであるから(平田武仁の代は不詳)、撥捌きから工夫したのは無二斎という事になる。 ...
  無二斎道場
平田家の敷地内にあり、此処で宮本家兵法が行われた言われる。その横に平尾家があり、平田武仁と平尾無二が古伝兵法を錬磨したのだろう。ただ建物が当時の儘かどうか不詳である。
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