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●第四ラウンド「武仁と無二

作州説も地元の研究者の立場から色々考証されてきた。それなりに深い考察もあるが、思うに一つの問題点として平田武仁と平尾無二の分別がなされていないという事がある。しかし勿論分別するのが正しいのどうかという問題が先ずあるかも知れない。

武蔵を育てた所謂宮本無仁斎とは平田武仁と考えてよいのかどうか? いやこれは年代的にやはり難しいと考える。

宮本無二斎一真は慶長十八年以降も生存し、それなの指導をしていたらしいことが窺える。これが平田武仁の後進とするならば、天正八年に63歳、もしくは53歳であったという武仁は96歳にもなる。53歳説を取っても86歳となり、当時としてはかなりよぼよぼのお爺さんとなりとても武道の稽古所ではないだろうと感じられる。年齢的にはありえないとも言えないが、それだけの長寿ならばそれなりの描写が記録として残る気がする。いや、それよりも天正八年死亡という墓標があるという事実を乗り越えるのは少し難しいと思えるのである。

 

●「三年の誤差」

天正八年没の武仁から天正十二年生まれの武蔵は血はつながらない。だからやや強引ではあるが、武蔵の生まれを少なくとも三年は上がらせる必要がある。武仁の実子とするならば致し方ない方法論である。

そしてこれは少し別の論説ではあるが、年齢問題において船曳先生は図らずも十三歳で大人の強豪を倒すのは不可能性が高いのではとの疑問を呈しておられる。確かにしかりであり、確かに小学校6年生では難しい問題がある。これもせめて三年成長させて十六歳くらいに考えたい。

当時の戸籍登録のやり方がどの程度厳密であったのか不詳であるが、天正九年に産まれた武仁の遺子を育てながら血筋や家系の問題もあり、戸籍登録を躊躇、曖昧にしていたことは考えられる。お政が天正十二年に亡くなってあわてて戸籍登録していたとしたらどうだろう。

いや当時そもそも戸籍登録があっかどうかの問題があるのだが。

武蔵の生年はお政が亡くなった時点を起点として、またそれまで浮動票であった武蔵を(平尾改め)宮本家の系脈として入れ、武仁武術の系脈として教育されていったのではなかろうか。生年天正十二年としてかりに育てられたが、実際の生誕は天正九年であったとしたい。その3年の齟齬は武蔵自身も認識出来ていなかったかも知れず、認識していても一応書類上の生誕年を以て人には公言してゆくのは当然である。この様な事は決して特殊な事ではなく、日本では明治くらいまではよくよくあった事であることは多くの実例によって想定できるのである。

とはいえこれらの事は管理人の想定説なので資料が出るまでは確言しようとは思わない。ただそういう事もよくあり、この様に考えればどこにも矛盾は生じないと指摘するのみである。

 

●「おぎん」

平田系図ではおぎんは武仁の娘となり、平尾系図では太郎太夫の娘となる。これは矛盾であるが、平田武仁の娘で衣笠氏の男子が結婚して平尾家を継ぐという論理は出て来ない。やはり平尾家の娘であり、そこに衣笠氏男子が婿入りして平尾家を継いだとみるのが妥当である。平田家系図再作成のおりに白岩神主が混乱して誤解したのだ考えたい。

 

●「宮本武蔵遺跡顕彰会」

明治の終り、熊本の「宮本武蔵遺跡顕彰会」が武蔵の研究書を残し、武蔵は作州生まれと認定した。当時における研究段階の低さ故にに若干の説き誤りも認められるが、大体は妥当な判定をなしているのではないかと感じられる。当時としてちゃんと宮本氏系図を見ているし、ちゃんと資料批判もなしている。

顕彰会の本拠は熊本であり、その意味で依怙贔屓のない客観的に判定をなしているのではないかと感じられる。如何にもしかりであり、本当に客観的に冷静に資料を見つめるならば何方かと言えば作州説に軍配をあげるのが本当ではないかと感じられる。しかし人間というものは中々に客観的にはなれないかなり情けない動物であるのかも知れない。

綿谷翁は管理人と同じ兵庫の出身で、武蔵播州説の可能性を追求した方であり、原田夢果史先生は郷土史家として小倉宮本家よりの解釈をなしていたように感じられる……。あっ、しまった! 研究論争で研究者の出自、立場を述べるのはタブーでした。ただ現役論者ではないので研究論説史の総括として述べさせて頂きたいのである。

後の自称研究者たちは先代研究者の強弁を写すばかりであるのだから問題外であろう。流石に綿谷翁は最後のところで説を断定しなかった事は見習うべきであろうかと思う。それに論の方向性はともかく多くの周辺資料を駆使した研究は一つの業績として残り、武蔵の本質をより深く窺う事ができる様になってきたのでないかと思うのである。今から考えると原田先生の論説はやはり少し一方的であると感じられ、いま少し宮本氏系図の史料としての経判を成すべきであったかと感じられる。

多くの武蔵出自資料の中で(講談はともかくとして)養子説を称えるのは幕末の宮本氏系図のみなのである。

 

●「福原浄泉先生」

作州の地元研究者としての草分けは福原浄泉先生である。多くの論文があったかと思うが、大体は『宮本武蔵生誕地の確証』(1969)『宮本武蔵の研究』(1964)『宮本武蔵の探求』(1978)位が著名である。史料の羅列で少し読みにくい様な部分があり、長く書庫に眠っていたが、ヤットコサットコ探し出し、大体は揃えて読み直してみた。すると以前とは違い目の覚める思いがした。研究段階、その時代的なレベルの問題があり、間違いもある程度散見するが、非常に真面目な態度で研究されていることに頭が下がった。現在の自称研究者に勝る事、百万倍である。

福原翁は多くの貴重な史料を発掘されており、管理人も少し勘違いしていたのであるが、竜野多田家『兵道鏡』の発掘において、森田栄先生との連携やコメントがあったので共同作業か、森田先生の発見かと勘違いしていたが、既に『宮本武蔵の研究』のおりに史料を提出されており、多田『兵道鏡』を発掘された業績は福原先生の方であったようである。この点、魚住氏も福原先生の業績を無視したような論述をしており、如何なものかと思われたのである。

ところが人間というものは先入観があり、筆者も森田先生の武蔵研究がインパクトがあり、そうした意識を持っていたが、福原先生の著作を読み直すと史料に対して真に正統な捉え方をなされており、研究者としては立派であると感じられたのである。いま一つの先入観は郷土史の地元研究者として牽強付会の論文のようなイメージがあったのであるが、これは全くの誤解とあると思う。

少し論文がとっつき難い部分があるのと管理人の研究レベルが低かった為に誤解していたように思う。

 

●「立場」

研究者というものは事象に対してあくまで客観的に接し、偏った立場にあってはならないが、しかし人間は人間であり、男、もしくは女であり、何々人であり、故郷の持たない者はいない。また郷土愛を持たない者も凡そいないだろうし、祖国愛や郷土愛を持たない者など人間として如何なものかと思うのである。しかし郷土愛があることを認めた上で我田引水、依怙贔屓は大嫌いだと言い切って考証する福原翁は真に立派であると思うのである。綿谷翁も頑固だったが、やはり大考証家であり、史料を提出しながら最後の所では決して播州生誕絶対論ではなかったことは立派であり、後の剽窃自称研究者と比べることは出来ない。

少し福原翁の考証を見てゆきたいと思う。先ずは『宮本武蔵生誕地の確証』であるが……。

 

●「内容」

A6版50ページ位の小冊子であるが、この時点で発見されていた大体の史料をみて論評し、作州生誕を結論つけている。ストーリーは平田武仁の実子であり、平田武仁が宮本無二斎一真であり、天正8年以降も生き、かなり以降まで生存していたとする。泊棟札や解釈も妥当であり、宮本家家系図に対して疑点を呈している事もそれなりに納得できる論理である。平尾太郎右衛門=宮本無二斎説は否定している。
しかし当時としてはそれほど無二の黒田藩での史料が出てきておらず、慶長十八年位に武術指南をやっていたことはわかっていなかった。この者を平田武仁の後身とみるならば90にもなる。絶対ありえないとも言えないが成立は少し難しいように感じられる。
武蔵政名という諱の問題も尾張の碑をあげ、玄信政名同一人説を取っている。しかしこれは恐らく『武芸小傳』その他で誤られた為に平田系図や尾張碑も混乱したのではないかと考えられる。武蔵は青年期は義経と名乗り、伝書が残っている。当時の政名の伝書は後世のものしか残っておらず、玄信政名同一人説は管理人としては否定的である。しかしこれは単に系図制作者が混同したと考えれば済む事である。

 

●「方向性」

管理人も含め、福原書ではなく、綿谷系の研究書籍から勉強を始めた者が多いので平尾氏が宮本無二という構図が出来てしまっているが、この検証もまだまだ結論を出すのが早く、検討の余地ありと思われた。福原翁の研究も自家雑誌などで当時断片的にみていたが、少し分かりにくい感がした。そして一般市場にあふれるのは綿谷本系であり、福原研究をみていないものが多いのは致し方ない……。しかしそれも研究者としては全くの手抜きだろう。そして最初に取っかかりがこの方向性でゆくと修正するのが難しいくなる。しかし剽窃物書き屋の横行には全く困ったものである。先代の研究を踏まえる事は別に構わないが正しく摂取して頂きたいものである。

 

●「リセット」

ある程度色々な資料と研究書をみて研究を進めてゆくと、情報が交錯しややこしくなってゆく。ある時点において全てをリセットしな来れば先に進めなくなるのである。管理人自身も研究書の情報の検証漏れも含めて考え直す必要があると感じられるのである。

ざっと研究書を見てきて平尾太郎右衛門の本質について今一度考え直したい。

綿谷書に平尾太郎右衛門と平田武仁の妻が同一人物であることを述べているが、これは何処が原典か分からない。

また谷口覓氏の研究書に平尾太郎右衛門の妻は武仁妹あるが、これも原典が分からない。古文書には平尾太郎右衛門の妻に就いては(管理人の知る限りのものの中には)情報はないようである。

ただ古文書の説明によると武仁の娘の子供が与右衛門で、そして武仁の娘と結婚して平尾太郎右衛門の養子となったと読める記載がある。しかしこれは可笑しい。これでは近親相姦である。やはり文書として平尾無二と平田武仁を混同して混乱していると解釈される。

 

●「道真と鎌足」

平田系であると菅原系であり、平尾系が藤原系であり、宮本無二斎一真は藤原を伝書で名乗っており、武蔵もしかりである故にやはり宮本無二斎は平尾系の人物であると解釈される。やはり平尾太郎右衛門が正体だろうか。

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