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●「大予言」平成15年5月25日
昨日近所の西向天神の祭りで西岡常夫先生の率いる清隆会の奉納演武があり、拝見させていただいた。神道夢想流の杖術、神道流剣術、内田流短杖術などの演武であるが、全ての演武を当年80歳になられた西岡先生が打太刀となり後進を導いておられたのが印象的であった。
演武のあと、境内で麦茶を頂きながらお話を窺ったが「伝統的な武術は師匠が我身を消耗しながら弟子を導くのが当たり前。今の武道は師範が弟子を投げて威張っているだけ。日本の武術が武道になり、道がついてドウも可笑しくなった」と軽いギャグを飛ばされ、真にしかりとは思ったのである。
老子は「道の道たるは真の道に非ず」といったが今の日本武道界の実態を正に言い当てた真に恐るべき大予言なのではなかろうか。

 

●古流武術は古武道にあらず
清隆会は海外からのお弟子さんも多く、英語を交えた会話の中で外人の質問に対して合気道などの新興武道をニュースタイル、古流武術をオールドスタイルマーシャルアーツという風に説明するのを聞いたがこのような翻訳は余り宜しくないのかも知れないと感じられた。日本語もしかりで現代武道と古武道などという分別と言葉からしてそもそも可笑しいのだと思う。
日本の古流武術こそがジャパニィーズトライディショナルブジュツであり(武術、武道は適当な翻訳語がない!)、現代(新興)武道はニューウェーブブドウである。
いかにもしかりであり、伝統的でないものが伝統武道を称え、それが日本の伝統武道文化の一端として捉えられることは可笑しいことであるし、長い伝流の中で磨かれ育まれ、本当の古典を醸成してきた古流武術こそが日本が産んだ至高の伝統武術といえるのだと思うのである。孔子の言葉通り、正しい政をなして行くには先ずは「名分を正す」ことが必要であると思われたのである。

 

●古武道はどちらか
オールドスタイル、その意味合いはつまり古い形態の武道ということであるが、古流武術と現代武道、何方が古い形態なのだろう。日本武道は長い伝統の中で単なる技法伝の形態を乗り越えて礼式と所作を内蔵した組形文化という何処の国にもみられない独特の武術文化を醸成して技法伝の上に付加し、また深い哲理を秘書の中に認めて尊き精神文化を被せて伝承する究極の伝統的流儀武術文化を完成したのである。古流武術は技と形、精神の三身を全て備えている。技法伝のみで施行される現代の武道と何方が古いと言えるのだろう。
出来た時期は問題ではない。その形態として現代の新興武道こそがそれこそ古い形態の武道であり、正に古武道なのではなかろうか。
古流武術は武術文化として究極の形態を保持し、古いままが常に新しい、正に最新鋭の武術であると言えるのである。

   

●補修平成15年5月26日
古流武術はある意味では古刀であり、骨董品であり、百円ショップでは売られていないものである。本当に優れた古刀を持つと新刀や現代刀はみていられない。とはいうものの古いものには欠けもあるし傷もあるかもしれない。それが古いものの宿命であはあるが、ある程度の補修が必要であると場合もあるだろう。下手な修復ならなさないほうがよいが三十年の時間をかけてやっと正しい居合の輪郭が見えてきた気がする。正しい古典型や古式の秘伝書類も時間をかけて復元した。色々な意味で筆者も現時点で一番良い居合が出来ている気がする。

 

●制定型
古流武術の道場を訪れても古典型など殆どみることが出来ない。全て制定型ばかり。先般道場見学をなすと徹頭徹尾段級獲得の為の制定型に終始し最後は入会するように説得されておわりだった。
古流を称えても古流ではない。全て現代武道の方式に犯され、商売武道となってしまっている。そのような中で古式の礼法、所作は歪み失われ、どこにも正しい古典はない。
思いなおして都内でも有数の古い道場を訪れた。流石に各稽古人の高い鍛錬度には感心させられたが、やはり正しい古典としては歪みがあり、それよりも正しい古典的な手継ぎ教伝が殆ど行われていないことは遺憾に感じられたのである。法典流の谷口先生は「戦後日本人は古来の尊い精神文化を弊履の如く捨て、皆商売武道ばかりとなり、今の世では真の武道に出会うことは真に困難……」と嘆じられたがこれは本当に、本当にその通りであると思う。日本武道はこのまま死んでしまうのか、それとも既に死んでしまっているのだろうかと思われた。


●「リンク」5月29日
先般カットラリー様から相互リンク頂き、本日は直心影流薙刀術秀徳会からリンク頂いた。カットラリーは居合刀製作販売店であるが、刀身の造りが中々よい。他の造りもよいけれども、これからもいま少し各部品を揃えて選択肢を多くして行ってほしいと思います。
秀徳会については管理人とは関わりが深い部武術団体である。というのは管理人の武術の原点となったのは神戸の園部一族の武術であり、単なる技術傳のみならず、その深い精神性が次代次代に受け継がれて行くことを祈りたい。
しかしかつての諸先生方が今の日本武道のありさまをみたら何と言って嘆かれるだろう。余りも酷いの一語であり、このような世の中では中国武術が流行するのも無理はないのかと思われた。今の日本で求道してもどこにも道などない。目に見える道の看板は乱立しているが、目に見えない大道は既にどこにも亡くなっているのである。

 

●「憂い」
武術本もレベルの低いものばかり。武蔵研究書は剽窃と歪んだ論のてんこ盛りである。日本の文化の近年の歪みと低レベル化は眼を覆うものがある。武蔵のテレビドラマも酷いの一語であり、一、二度みたきりでみる気になれない。外国でも評判になった人気アニメ映画も本当につまらない。こんなこと書けば嫌われるのかも知れないが自己の思いには正直にありたいのである。また10年ほど時代小説大賞に関わったが賞を受けた小説本を読もうとして遂にどの本も一度も読みきれなかった。つまらない小説を読むのは全くの時間のむだである。新興武道もみるに堪えず、これからは小説も武術も古典を味あうしかないと思うのである。
管理人は果たして現代の文化をけなす事で鬱憤を晴らしているだけなのだろうか。いやそれであるならば真に結構ではあり、管理人の知らない所でレベルの高い教傳がなされていることを祈りたい。しかし今の日本武道界の状態をみて日本の将来の憂いを感じない事の方がどう考えても可笑しいと思うのである。このままでは日本は全く武術文化の存在しない情けない國になってしまうに違いない。この紛れもない事実に人に嫌われても嫌われても警鐘を乱打せざるを得ないのである……。

    

●「日本刀の格」平成15年6月1日
日本武道の文化の高さは、その象徴とも言える日本刀をみれば理解できるだろう。世界の刀剣の中でここまでの美術性を注入した武器は何処にもないのである。中華や西洋の刀剣にも勿論美術性はあり、日本刀が一番とするのは我田引水とされるかも知れないが、しかし客観的な事実として日本刀が現在民間人にも保持され、また製作もなされているという事は大変な事なのである。実際西洋刀剣や中華刀剣の存在は日本では法律上ゆるされていないわけである。単なる武器を超えた美術品と言われるまで仕上がった日本刀は本当に素晴らしい。
しかしその日本刀の格の高さに現傳の居合や剣術がそれに見合うだけの文化を保持しているだろうか。管理人は古流儀の歪みと乱れを遺憾に思うのである。

 

●「神傳」
居合は単なる人間が考えたものではなく、それは夢想のうちに神傳にて継承されたという伝説がある。それは為にするはったりの部分もあるかも知れないが、その様な信仰の元に何百年も古典が連綿と継承されてきた事は事実である。古典形とそれが内蔵する所作や礼法、それをないがしろにして何処に道があるのか。先達は武道を滅ぼさない為に様々な工夫を凝らし、ある時にはある程度の効果を上げたのであり、当時の先生方を非難しようとは思わないし、そのご苦労は偲びたいと思う。そしてまた武道の稽古法は各人様々であり、段級を目指す稽古があっても別にかまわないだろう。余所は余所なのだから。
ただ当会では制定型は断固排除してひたすら古典を伝習するのみである。

 

●「礼式」
礼のない武道など何の価値もない。しかしその礼も形式のみに陥ったものではならず、逆に形式のみを施行すると心のないものになる。「礼といい、礼という玉帛をいわんや」、だから当会では最初の始礼、終礼を特に定めていない。形を定めないと人の心が見えてくる。形も重要であるが、それ以前の問題がある。形式ばった礼式をなしても小休止に足を投げ出しては何にもならないのである。区議会議員まで勤める武道師範もあり、彼は門人の礼にはうるさいが、本人自身はろくに稽古もせず、たまに道場に見に来ると道場に入るのにスリッパを履いて入ってくる。基本的なマナー違反が武道界に余りにも目立ちすぎるのである。しかし礼の心は大量生産マスプロ道場の形式礼で育たない。全て商売武道となり、門人がお客様とななり、お客を叱れなくなっているわけである。

 

●「スカラー波」
世が末世になると色々変な者が出てくるが、白装束軍団が幼稚な迷信を大まじめに信じていることに驚きと笑いがあるが、しかし考えてみれば今の武道界も同じようなものであることに寒さがあるのである。「●●は力を用い○○はハッケイを用いる」とか「●●にアイキがあるとかない」とかまったくそれぞれの言葉の定義も無きままそれぞれの思い込みの定義と認識の元にした歪んだ論説を他系修行者や一般人に主張しても全く議論がかみ合わない。武道界も確かに歪んだ白装束軍団の勢ぞろいではある。

 

●「裏」平成15年6月4日
普段おいしいと思って食べているものでもその製造過程をみるとおぞましくてとても食べられなくなる時がある。逆に何気なく食べている物が如何に大変な、人のご苦労と汗との結晶だと判り頭の下がる思いのこともある。人の眼は表ばかりが見えて中々に裏側の世界をみることは出来ない。どんな武道もその中に入りると本質が見えなくなる。色々なきれいごとを言ってもその武道の真の成り立ちを知った時、真に耐え難い部分がどの武道もあるのではなかろうか。逆に本当に尊い伝統武術は疎んじられいま正に消え去ろうとしている。良いものが残り、悪いものが消え去るのが世の法則だと人はいうが武道において本当に良い武道かどうかは実を言えばそうそう簡単には分かりはしないのである。何故ならそれは武道というものは一生の道であり、何年も、あるいは何十年やってみて始めて分かる部分があるからである。農薬をふんだんに使った虫喰い一つない食べ物は見た目も綺麗であり、化学調味料をふんだんに使った食べ物は口にやさしく甘い味がするのかも知れない。しかしその害が現れるのは何十年も先であるのかも知れないのである……。

    

●「見学と見物」平成15年6月7日
管理人はあくまで古流武術の立場に立つ者であるが、新興武道を全面否定する者ではなく管理人自身それなりの修行もしたし、よい所は見習いたいと言う心は常にあるつもりである。合気道において、一つ良いと思う部分は、稽古において師範が手本を示し、技の解説をなすと皆さっと正座をなして師範の説明を静聴すると言う姿勢を示すことであり、これは中々良いスタイルであるように感じられる。合気道の原型が講習会形式によって伝が伝えられてきたのでその系統を引いているのかと思うがそれなりに見よいスタイルである。武道の種類によっては出来にくい部分もあるが、しかし古流武術でも演武をなすとき、皆が正しい姿勢で見取り稽古をなすのは当然である。
しかしながら最近の他系合気道の稽古を見ているとその原則が全く護られていない、何ともだらし無い稽古を見かけることが多い。武道の座りで許されるのは基本的に正座と安座のみであると思うが演武を見学する場合は基本的に正座であるべきであり、師範から「お平らに」と言われて始めて安座をが許される。だが今日も体育館において他の合気道系の稽古で皆体育座りをなして、師範もそれを何も言わないのを見た。いや合気道のみならず、剣道も柔道も居合も全く古式の礼法が失われていることは驚くべきことである。
しかしこんな事ばかり言っていると、二十一世紀になって何を馬鹿言っているんだと笑われるかも知れない……。

 

●「ファイトとトレーニング」平成15年6月11日
管理人の好きな昔の武術劇画にかつての平田弘史師が描く所の一連の時代劇画ある。ある時期以降はともかくかつての古い作品群は真に超絶的であり、その中に『孤影』と言う名作劇画があるのであり、その中に次のような名場面があるのである……。
主人公は余りにも強すぎ、そのために敵に狙われ、よって不幸な人生を送っているのであるが、その点をある子供に話すと、子供は「じゃあー、強くなってもつまらないね」と嘯いて地べたの石を蹴るが、主人公は即座にかぶりをふる。「いや、そんなことは決してないぞ……。本当に強い人はな、人が切って来てもちゃんと穏やかに勝てるもんなんだよ」と即座に応じ、しかして「だから人を傷つけて恨まれるおじさんはまだ未熟なわけさ」と自嘲するのである……。真にしかり、人を斬り、また傷つける事が武道ではない。いやいささかなりとも自他の体を傷つけるのは本来の日本の武道ではなく、また武道の本来の稽古でもないはずである。本来健康にも繋がるはずの武術稽古で新たなる怪我をしては全くの矛盾である。武道の鍛錬には色々な方法論があるが、そもそもファイトとトレーニングは根本から違う事を知らねばならない。そしてまた勝つことばかりが武道ではない……。「実戦、実戦」との言葉を連発し竹刀競技や約束組手で勝負論を云々しても詮のない話であり、そもそも競技試合の勝負と、真剣勝負は全く別物である事を知らねばならない。約束事の稽古で技の浅薄なる制敵効果を競う事が武道ではない。本来の武道は既に勝ち負けを超越したいと優れた深遠なる錬功法なのであるが、その本質は誰も知らず、現代の武道界で殆ど行われていないに等しい……。

 

●分別
武術稽古には様々な形態があるが、近代武道においては施行しているものが「勝負法」であるのか「錬功法」であるのか、はたまた「形」なのか「技」なのか「乱取り」なのかの分別が曖昧である。古流武術はその全ての形態を保有し、高い立場からそれぞれを分別する事が出来るが近代武道はその中の一部分を歪んだ形でクローズアップしていることが多いので、修行者も各形態を把握するがどうも出来にくいのである。特に「形」と「技」との差異で勘違いをし、また「勝負法」と「錬功法」との差異が分かりにくい。古流にも「乱取り」はあったが近代柔道の勝負法としての乱取りとは実は似て非なるものであるとも言える。形は似ていても基本精神が違えば全く非なるものとなるのだから。それは「武術」と「格闘技」の差異の問題と同じ問題を含んでいるだろう。

    

●独善
ホームページは自由に書けるのでついつい独善的になりがちである。また他系の誹謗にも繋がりがちであり、管理人もつい羽目を外し自戒しなければならない部分が多く、反省する事しきりである。管理人もそれほど他の悪口を言うべきではないと思うのであるが、近代武道の有り様はともかく貴重な古典武術が消失してゆきつつある実態にかなりの危機感もち、つい近代武道との比較から古流武術の本質を紹介することになってしまうのである。このようなやり方は余り宜しくないのではないかと反省はしているのであるが、ただ古流武術と言うものが現在殆ど一般に認識されていないので近代武道との比較から述べなければ説明しにくいと言う事を理解して頂きたいのである。これは管理人の言葉足らずであり、そもそもが説明の下手さが原因であり、もっとダイレクトに古流武術の本質を説明してゆきたいのであるが、中々に出来ないでいる……。

 

●絶望
正直な所、古流武術の事を聞かれても、それを学んだ事のない者に説明する事はかなり困難であるように感じられる。一言で言える事ではないし、また近代武道との比較をなせば、下手をすれば近代武道の誹謗に繋がる危険があり、その意味で最初から説明を放棄せざるをえない事がある。もっとやさしくその本質をダイレクトに説明し、一般大衆に古流武術と言うものをもっともっとアピールしなければならないと思うのであるが、ここがどうも管理人の駄目な部分でいま少し工夫が足りないのかも知れない。これからの世の中でどのように古流武術を他を誹謗することなくアピールして行くか、これが管理人の今の課題であり、これからも考えゆきたい。

 

●「静謐」平成15年6月15日
古流武術は静謐なり。所作をともない。動きは止まる。止まりながらも居ついてはいない。それは廻る駒が静止ししたように見えて高速回転しているのと同じだろう。古典武術は野外や板の間で稽古され、木刀や刃引刀が用いられたが、やがて畳の間を導入し、また竹刀や防具が工夫された。よって激しい稽古が可能となったが、技自体はラフになったようにも思われる。
怪我がないように工夫されたものであるが、動作がラフとなり深遠なる身勢の教えが曖昧となった。受け身一つとっても古式の受け身は失われ、激しい動作で身を傷つけるばかりである。錬功と言うものは静と動の二つの方法論があり、動なる激しさも若い時には必要であるが、年齢が高くなると静なる深い錬功を体が求めるようになる。その意味で古式の武術が保有する静なる錬功法はこれからの世の中でも絶対に必要なものであり、何としてもを遺してゆきたいが、しかし現在では何処でも全くみることが出来なくなっている……。

 

●似て非なる
古式の受け身と現代の受け身は似ている。似ているが非なるものであり、目的や条件が違う為に全く内蔵する本質が違ってくる。錬功には動と静が必要であり、本来の古流は両方を保持していることが素晴らしい。

 

●ラフな動き
ラフな動作とは一つには反動を用いた動作であり、静謐なる動作とは反動用いずに意をもって身体を移動させる。反動を用いた動作は見た目は激しく、力強いし早いが武術にもっとも必要なる一瞬の転換が不可となりその意味で動作が遅れ、実質上は遅い動きとなる。古式の奥深い受け身法の動作は畳の間では育たない。日本の武道は画一化の為に深い膨大にして多様なる文化を本当に殆ど完全に失なってしまった。

 

●剣と柔
剣術も柔術も古来は本来一体であったが、近代では分断され、両者を繋ぐ深い極意の教えが失われている。両者を繋ぐ極意伝、その一つは静謐なる古式の受け身法である。しかしそれは大量生産の近代武道で育つものではなく、理解も出来ず、誰も知るものもいない……。

    

●「激烈」平成15年6月18日
古流武術は激烈なり。世界には様々な伝統武術があったかと思うが、日本武術ほど実際の戦闘をシュミレーションできる、工夫され尽くした試合メソッドを持つ国はないのである。そしてその撃剣や乱れ捕りの方法論が深い身体錬磨のメソッドに繋がった。日本武道が世界に伸びたのは激しい鍛錬システムで錬磨された強豪たちが世界に進出して各地の強者を打ち倒して武道日本の名をたからしめたからである。現代武道、特に柔道、剣道はその激しさを継承するものである。それらは古流のメソッドと大体は似ている。しかし似ていてるが似て非なるものである。錬功を主体とした古流の術理と競技試合を目的とした近代武道とのそれは全く違ったものである。目的と思想、意識の差異を由因として全く異質なものとなってしまっている……。

 

●心
深遠にして偉大なる日本武道。世界に冠絶する至高の文化財−−。しかしそれは本当に伝統的な古典武術こその事であって、近代の新興武道の事ではない。技法は似ていても内蔵する心の道は別のものである。近代武道がスポーツの道を進んで行くのは歴史的な必然であり、経済原理であろう。それはそれで結構であるが、管理人の世界ではない。形や技術はにていても心は違う。ところが時間が経って形も稽古形態も礼法も全く違ったものとなってしまった。

 

●一部
近代武道にも素晴らしさがあり、良いところがあるからこそその道や技術に魅了されて邁進する者がいるのであろう。しかしその素晴らしさは日本伝統古典武術の各パーツの素晴らしさと同質のものであり、だから素晴らしいのである。現在の柔道の乱取りのレベルは極めて高く、また大変に優れた錬功メソッドであるが、日本柔術で古くから完成、醸成してきた世界である。近代剣道も同じ事。同質(心は違うかもしれないが)のものが何百年も前から古式剣術の中で完成されていた。合氣の技法もまたしかり。それはそれで結構であるが、各パーツではなく、その全ての全てを含むのは古典武術、伝統的古流武術であると考える。

 

●生涯の道
人生は短いが長い。場合によっては3桁の歳を生きる場合まである。しかし近代武道の現役は短すぎる様には思うのである。現役を退いて役員や指導員となって生きる方法があるが、稽古しない、出来ない指導員が多すぎるのは余りにも寂しい事である。各年齢における最適のメソッドを保有し、生涯の道に出来るのは古流武術のみである。

 

●無理
若い時には無理がきく。激しい稽古にもある程度は耐えられる。しかし耐えては駄目、無理はやはり駄目なのである。歳をとってやっとわかることがある。伝統的古流武術が現在の形態を醸成したのは故無きことではない。古流武術には静と動があるが、激しいくとも無理はない。ハードとラフとは違うものである。生涯の道は伝統の中に聞くべきだと思うが、それが若いときは分からないし、残念ながらその伝統すら今の日本には既に存在しない。

 

●伝統
近代武道が伝統をとなえても実際に伝統を継承している系は殆どないと言うのが実態である。伝統的でないものを伝統を称えても世が混乱するばかりであるが、伝統を知らないから伝統があるかどうかも分からない。

 

●自称
当たり前の事であるが、人の言う自称をそのまま鵜呑みにすると間違いが多い。古武道研究家と称しても大一次資料を殆どみたことがない者が殆どであるのである。伝統武道と称しても鵜呑みにする前にその本質を見極める作業が必要でだろう。

    

●「威儀」平成15年6月20日
人を倒す技の事ばかりが武道ではない。また道場の稽古ばかりが武道ではない。坐作進退威儀備わるのが武道であり、正しい所作と礼法が伴っての事である。人を殴る稽古をしても正しい所作の出来ないものは姿勢が悪く、所詮限界がくる。道場の稽古など所詮は週に何度か、数時間づつのみ話であり、普段の生活に錬功がいかせるのでなければ至れる所はたかが知れているだろう。
正しい所作と礼式は錬功を伴い、武術技法の深い部分を支える真の力がある。
世界各地に武術文化もそれなりに数多い。しかし日本武道ほどに格式たかい礼法の世界、かくまでリンとした格調のある所作文化を内蔵する武道を築いたものがあるだろうか。しかし築いたことは築いたがその威儀備わる深い武術はもうどこにも残っていない。

 

●「技は学ぶ必要なし」
武道の本体は「礼」であり、その礼が本当に施行出来ているならば武道の技はことさら敢えて学ぶ必要なし−−。管理人の居合の師匠から、師匠の師匠の言葉の伝えとして教えられた言葉である。しかし真の礼を施行するとは何と困難なことだろう。技の稽古のほうがよほど楽であるかも知れない。「試合稽古こそが実戦的で形などやってもどんな意味があるのか」と馬鹿にしている者が、管理人の師匠に居合形を学ぶと正しく座ることも出来ず、10分もたずにひっくり返って終わりである。
いかにもしかりであり、管理人も多くの流儀を学び、多くの技を稽古してきたが、最後の段階では全ての技は関係なくなり、正しい所作が内蔵する深いものだけが残ることになる。

 

●「修行年月」平成15年6月21日
古流の修行法は何年も基礎だけ教えて、上の極伝は中々に伝えない。そんなことは嘘。本当に手解きして門人を育てる積もりならば数年で免許を与えるのが本当である。近代武道は全て商売武道となり伝の出し惜しみをするが、出し惜しみするほどの技が現代武道にあるかと言う問題がある。殆ど全ての形や技は殆ど公開され秘伝もくそもないのだから。本当に秘伝たる秘伝を保有しているのは古流武術であるが、本気で教えれば僅かな期間で全ての伝を教えることが多いだろう。管理人の伝える流儀も膨大な体系の流儀もあるが、それでも本気で教えた時は凡そ一年で免許皆伝を与えてきた。少ない体系であれば本当に僅かな期間だろう。伊勢守も僅かな期間の教えで石舟斎に許しを与えているし伝受に時間をかけるのは現代のやり方である。

 

●「恐怖」
本当に恐ろしいことではあるが、日本民族が長い伝統の中、何千年もの歳月をかけてやっと醸成した日本の伝統武術が根こそぎ失われつつある。いや既に殆どうしなわれていると言うのが正しいのかも知れない。古式のままで伝承されている武術などもう日本のどこにもないのだから。体現できる先生方も殆ど旅立たれてしまったし、その本質を知る先生方も本当に皆無に等しい。この上、古式武術の深い部分を本当の意味で理解されている何人か(山田先生か島津先生などの本当に数名であろうかと思う)の先生方がお隠れになられたら(失礼!)日本武道は本当に崩壊するしかないと思うのである。こんな失礼なこと、冗談でいえることではない。命は惜しくはないが日本の芸術が滅びるのが惜しいのでのである。その恐怖をひしひしと感じ、つい酒量も上がるが、こんなことではいけないと反省することしきりである……。

 

●「時代劇」
本年は時代劇がはやりだと言うが、全くみる気になれない。みるとがっかりすることは決まっているので無駄な時間を割きたくないのである。観もしないで何故に何が分かるかと言う者のいるとするならばそれは日本文化のかくまでの凋落を体感できない者であり、かつまた本当の日本文化の超絶的なレベルの高峰を知らないのではないかと思う。真にしかりであり、「邦画」の凋落ぶりは目に余るものがあり、それには必ず「あ」を付けるべきだと言いたい。しかしそれが日本武道の凋落と歩を同じくしている部分は興味深い所がある。それは精神レベルが文化の全ての全てに連動すると言うことなのであろうか。    

 

●「稽古量」平成15年6月27日
現代人は理屈で武道を云々する事しきりではあるが、それ以前の問題としては余りにも稽古時間が短すぎる。中には全く稽古しない者もある。稽古しないで単なる評論家と自認、自称するならそれも結構かと思うが武道家の立場では発言は余りにみっともないものが多い様に感じられるのである。近代武道も一般人は稽古時間がそれほどあると思わないが、層が厚い武道は上の方はそれなりの稽古時間をとっているようである。古流武術を含めて新々派の武道は殆どが稽古時間が少ない。週に一、二度など言うものが多く、それぞれの稽古時間も短い。管理人も人の指導も含めて週に出来るだけ20時間以上の稽古時間を取る様にしているが、それでも出来ない事が多い。現代は機械化が進み、また交通機関が発達してきたわけであるから昔より、作ろうと思えば時間は作れるはずであるが、正に近代武道の七不思議の一つである。

 

●傷(平成十五年九月十三日)
傷は時間が経てば直る……が実は直らない。歳を経なければわからないことがある。現代武道の危険性はそこにある。身体は命の入れ物であり、身体がなければ命も存在のしようがない。そして身体に施すことは多くの場合不可逆であり、元に戻すことは難しい。だからこそ身体を慈しみ、大切に扱わねばならなず、伝統古式古式武術こそがそのような立場で人の身体内外の危険分子を追撃する真の力を保有していると思うのである。ところが柔道、剣道、合気道、空手道、現代的なものはすべて身体を傷つける危険な部分を含む。特に戦後のスポーツ化を経てますますその傾向があることは遺憾である。
これだけのことを悟るのに30年かかった。

●怪我
合気道の修行者とも大分つきあって来た。想像以上に怪我が多いのに驚かされる。理屈のみで奇麗事では精神性は生まれない。

●膝腰
合気道で膝を悪くしている人が多い。真の原因は不詳であるが、テレビの健康番組で膝歩きは腰に悪いという論を聞いた。真偽は不詳であるが、古流武術にない全くない方法論という訳ではないが、延々と膝行で動作することには無理があるのかも知れない。

●居合膝
居合の立膝はきわめて独特の優れた錬功身勢であるが、錬功法はリスクを伴う。ゆえにこそ居合は静謐なる現在のスタイルにたどりついたのである。現代的な激しい表現は発展でもなんでもない。

●方向(平成十五年九月十四日)
先般、他系居合の稽古を見た。一人で黙々と稽古しておられたが、なかなかの丹田力でよく稽古されていた。師範クラスの修行者と思われたが、技を発する方向性が間違っている。このことは口伝ではあるが、大変に重要なことである。しかしこの師範に限らず現在の居合道は間違った方法ばかり。逆に筆者が間違っているのかと思われてくる。しかし流儀は違へど精神の道は同じであり、現在の居合道は余りにも歪んでしまっていると思う。  

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