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無二斎十手と南蛮剣法
宮本家には独特の十手器とその術が伝えられていた。これは正に独特の十手であり、江戸期の捕方が用いた十手とはかなり異質であり、他流にも類例のないものである。そしてその術技は十手と刀を用いた独特の十手二刀剣法であった。何故にこの様なものが作州の片田舎にて工作され、術が編まれたのだろう。一説では無二斎は京に上り吉岡憲法と戦い、勝利したと言われており、当時の文化の中心、都に上京したことがあるのだろう。門人である青木鉄人も京、伏見に住し、上京のおりは京の文化に触れる事も多かっただろう。その京には南蛮人もある程度おり、当時の絵図を見ると彼らは西洋刀剣を帯びたサムライのスタイルで町を闊歩している。田舎者の無二斎は京のエキゾチックな文化に触れて驚き、大いに啓蒙される部分があったのではあるまいか。 そして当時の南蛮人、つまり西洋人は当然故郷の剣法を身につけていたと思われるが、当時の西洋剣法は非常に珍しい長短二剣遣いの剣術が大いに行われていた。だとするとその術技に無二斎は触れて宮本家独特の十手二刀剣法を編んだのではなかったか。それを根拠無き空想と笑う前に当時の日本の南蛮絵図を観ていただきたいのである。当時の南蛮人は長短二剣を腰に差し、日本本土を確かに闊歩している。長剣に加え短剣も腰にあるが、その形状は日本の脇差しとはかなり違い、正に無二斎が発明した十手器の形状に酷似している。 無二斎の十手二刀剣法を基に宮本武蔵は大小二刀剣法オンリーの流儀「二天一流」を創造し、無二斎剣法は殆ど江戸期を通じて隆盛することなく、忽ち萎んだが、西洋でも当時行われていた二剣法は銃器の発達と共に忽ち廃れてしまった。その不思議な関係は確かに東西武術交流綺譚といえるだろう。[その詳しい解説は「武蔵研究論文」の「無二斎十手の秘密」を見てください]
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