総計: 490156  今日: 97  昨日: 129       Home Search SiteMap E-Mail Admin Page
天下無双 武蔵二刀剣法神免会
本文目次/16・3・1
稽古道具/17・3・20
生誕地問題/16・1・29
武蔵研究の深奥/16・11・20
秘伝書/18/2/17
剣法雑感/16・8・15
武蔵研究論文/20
入会について16/5/2
リンク/4
通販コーナー/16・5・20
秘奥義[門人頁]
拳法秘奥義
  
  
 過去雑感/15年 
 平成16年1月 
 平成16年2月 
 平成16年3月 
 平成16年4月 
 平成16年5月 
 平成16年6月 
 平成16年7月 
 平成16年8月 
無双直伝流居合術剣王会
無雙直傳流居合術劍王会
和科学の世界
琉球拳法秘拳会バナー
古流柔術研鑽会
古伝琉球拳法
天然理心流剣術研究
古伝秘武器術夢幻会
武蔵二刀剣法
大東流バーナ
祕傳大東流合氣柔術神氣館
無雙直傳和義禮和會
無雙直傳和義禮和會
幻の上方うどんの世界
幻の上方うどんの世界
唐傳影流
唐傳影流バナー
神戸下町たこ焼きの世界
チャンネル桜
古伝秘武器術夢幻会
チャンネル桜

●一日「本物と偽物」
管理人の稽古道具の製作理念は鞘木刀を含めて「本物」がテーマであり、出来るだけ「偽物」を排除することにある。しかし実は「本物と偽物」の分別は難しく、見る方向性によって違ってくる。ただ余り画一化された既製品を用いず、出来るだけオリジナル作品を作って行きたいと思っているのである。
また模擬刀は本来江戸期には存在しなかった近年の工夫であり、鞘木刀は江戸期に存在した稽古用の本物である。江戸期の居合稽古は真剣を用い、組太刀は鞘木刀を用いただろう。ただ初心者の為に真剣刃引きの刀も利用されたかもしれない。刃引きの刀における組太刀がどの程度行われたかは不詳であるが、その危険性も含めて殆ど一般的に行われていなかったと思われる。ただ一刀流系には刃引きの形があり、珍しい存在である。一刀流が刃引き稽古をなしていた為にその系を引く現代剣道の形が刃引きにて形が行われる事が多いのではないかと思われる。後は古流武術を見渡すと新夢想林崎流が真剣や刃引きで組居合を演じており、これも珍しい存在である。組形では危険が伴うから恐らく刃引きが多く用いられたかと思われる。
ただ合わせ作りも焼き入れもしていない稽古用の鉄刀が江戸期の武術で作られたかどうかは不詳で未だ実物をみない。ないとはいえないが真剣刃引きが多く用いられたのではなかろうか。
とはいえ、例外的流儀は別として江戸期の剣術と居合の稽古道具は真剣と木刀(鞘木刀)であっただろう。
一刀流にしても刃引きは特殊な稽古形態であり、普段の稽古はやはり木刀稽古が中心で行われていたのではなかろうか。

●「限界」
本物追及といっても完全には難しく所詮限界がある。現在オリジナル鍔を大分工作してきたが、江戸期の本物の真似はやはり出来ない事である。鉄の吟味、古式の鍛練法、別に穴あけにトンボなどの古式道具を用いる必要はなく、ボール盤を用いれば良いとは思うが、古式の象嵌まで完全に出来るのは人間国宝くらいだろう。いや現在のレベルでは江戸期における超絶的な鍔工技術の再現はかなり難しいかもしれない。
とはいえ出来る範囲での本物は追及したいし、既製品は出来るだけ排除して出来るだけオリジナル作品を工作して行きたい。今は最後の課題として目貫工作を研究しているところである。

●「職人」
刀剣職人は超絶的な技をもっている。確かに素晴らしいものがあり、真似が出来ないが現代職人の仕事をみていると感性と意識の齟齬に不満を抱く事も多く、すべてを自分でやってしまいたくなる。勿論全ては出来る事ではないが、自作稽古道具は三十年以上に渡って模索し、探求してきた。職人の持つ綺麗な仕事技術は少し真似できないが、伝統工法を踏襲しながら新たな作品を創造してゆくのは楽しい事である。

 

●八日「稽古道具」
武道具店をみてみるとやはり余り売れないものは次々と消えている。また道具の出来も余りよくないものが多くなった。武道店の木製の鞘木刀をみてみてみると外観はそれなりには良くできているが、何ともずぼずぼで何とも使いづらいものである。値段は結構な値段がついており、少し情けなく感じられた。いま少し驚いたのは柔道の下ズボンを買おうとして、昔のものと感じや寸法、デザインが違った感じがしてやめてしまった。考えてみれば柔道も色付き道着が出来ており、昔とは隔世の感ではある。稽古道具も稽古着も自分で作らなければならない時代が来ているのかも知れない。
●「弘法」
「弘法は筆を選ばず」……そんなことは嘘。良い道具を用いなれれは高いレベルの芸術は所詮無理である。模擬刀では本当の居合は出来ないし、ビニール製鞘木刀では本当の組太刀は無理であり、出来の悪い木製鞘木刀も同じことであろう。「カタカタ」居合は居合ではない。鞘木刀の刀装に拘り二十年かけてやっと昔式の鞘木刀が出来るようになったが、何も遊びでやってきた仕事ではない。単なる飾り装飾ではなく、真剣に近い拵えでこそ始めて正しい手之内が理解できると云う事なのである。

 

●「戦前戦後」
明治維新で伝統武道も大分歪んだが、近代武道といっても戦前戦後ではこれも全く違っている。戦前までの近代武道は江戸武芸の系をある程度は引いており、ある程度の精神性は窺える。
戦後に形成された武道は形もろくにないものが多く、伝統武道の片鱗もなく、精神性のないものばかりである。
●「伝統武道、日本武道」
伝統武道といい、日本武道とも云うが伝統武道はなんだろう。日本武道とはなんだろうかと思うのである。江戸期流儀武道のその儘の文化形式をその儘受け継ぐ必要はないとは思うが、戦後武道は余りにも伝統の形態自体を崩し全く古法が護られていない。日本の伝統をかくまで外したものを伝統武道、日本武道と呼ぶべきかどうかはよくよくかんがえてみる必要があろうかと思うのである。

 

●十日「正躰」
体を整え、正しくするのが武道であり、伝統的な正しい動作を教え伝えるからこそ伝統武道なのである。しかし現代では正法は湮滅し正しい坐作進退すら出来ない師範ばかり。学んでいないから出来ないのは当然ではあるが、不正な動作を一生続けても迷いの迷路を往来するばかりだろう。
●「正武」
現代の社会生活は自然の営みを遥かに離れて、所為にして体が歪むばかりである。歪めば痛みを伴いやがて死ぬ。本当にいやなことだと思う……。それを正す為にこそ武道が存在したが、正しい武道は日本中探しても既に何処にもなく、商業武道が現代人の体の歪みを助長し、精神を蝕んでいる様に見える。確かに今の武道(と言われるもの)は学ぶ価値は殆どなく、逆に体を壊す心配をすべきである。またそれより先に商業武道のおぞましさの真実を知れば、とにかく近づきたくも無くなるのが人情だろう。
●「許由・巣父」
現代武道は目を背けたくなる部分が余りにも多い。その歪みはイメージとして残るからなるべく見ず、もしみてしまったらすぐに目を洗った方よい。現代武道の話しを聞いた時はすぐに耳を洗う事を心がけるべきだろう。そして洗った水にもなるべき近寄らない様にするのが理想である……。
●「同塵」
理想はともかく今の世では理想どおりには出来ない事も多いだろう。なるべく避けて身心の汚れを増さない様に(無くする事は不可能である)注意したいとは思うのである。孔子は「しからざるもの」との交流を避ける事を教えたが、老子は「和光同塵」を説く。老子の方が現代社会では実用的な教えである様に感じられる。その意味では老荘思想が厭世哲学との評価は此処では逆転する……。

 

 

●「武」
「武」の字解は色々に説かれ異説が多い。管理人は単純解釈として「戈を止める」という意味合いで良いと思うが、いや、「戈を持って足で進む事」と云う論もあり、これも一つの解釈だろう。また上の「一」字を下に移動し、いや寧ろ「戈を正す」と云う意味合いが良いと云う説があり、これも中々に良い教えと思う。しかしそれを越えて「武」の右部品と「戈」では、それは同じではなく「ノ」字が足りないのではないかと感じられる。筆者は「一」と「止」は足すと確かに「正」となり、これはこれで良いが、残りの部分は別の意味と考えたい。それは「七」と「点」になる。「七足す一点」で「八」を顕していると考えたい。つまり「武」とは「八正」であり、「武道」とは「八正道」を顕していると考える。意味合いはずばりその通り。浮世の四苦八苦を滅する唯一の道は正に「八正道」であり、それは「武道」のものなのである。

 

●25日「非道」
門人から普段出来る独り稽古の良いやり方はないですかと尋ねられることが多い。日本武道の中では居合、弓、また拳法型などの独り稽古の為のメソッドがそれなりにないわけではない。またかなり独特の道具を用いたかなり特殊な錬功法も結構存在している。場合によってはある程度それらを紹介、指導する事も多いが根元的には余り薦め難いものがある。一つには独り稽古はかなり能率が悪いという問題があり、この点はかなり厳しいだろう。ただ独り稽古でなければ会得できないこともあり、一概には否定できず、管理人も今でもある程度はそれなりにはこなしている。だからそれぞれ工夫してある程度稽古をする分には否定する者ではない。しかしそれとは別にもっと人間としての精神的な立場からの根源的な問題があり、故にこそそれほどそれらを薦める気になれないのである。いやそれは独り稽古のみならず、武道というものにどれほどのめり込んで良いのかという深い問題にも通ずる。
何事も程度の問題であり、程々が良いともいえるから、全面否定はしないが、武は所詮は不詳の器である事も一面的な事実である。また人間というものは個人で成立しているわけではなく、どんなときでも社会との関わりの中で存在しているのであり、そこには当然人間としての責任もあれば義務もある。それは決して法律の規定ばかりの事ばかりではなくそれを超えた深い道義の部分があると思うのである。
独り稽古の中には社会との関わりの部分が薄く(ないとは言わない)、よって管理人は人の道に非ずの部分を強く感じるのである。管理人の二天一流の師である秋満先生もパチンコ店に開店前に行列を作る者をみて「そんなものをして社会に何の役に立つか」と言って嘆かれたが、管理人は現代の武道の修行者にもかなり部分で同様の感をもつ者である。

●「一丁字」
現代武道を修行する事にどんな意味があるかはかなり微妙でこれは大変な命題でもあるのである。大して護身の用に立たないし、健康という点でも難しい部分があり、逆に身体を壊す危険までがある。これは一般スポーツやパチンコやテレビゲームといった遊戯事と同じであり、余り社会的に褒められた事ではないと思う。人が自由意志でなすことに関しては信仰の自由もあるから特にとがめるべきではないが、人間にはそれぞれもっと本来なすべき事があるのではないかとは思うのである。勿論古伝武術はこれは別であり、ある程度納める事は人間がなすべき当然の道である。しかし古伝武術のみでも足りない。目に一丁字もないものが武術で強くなっても世に迷惑をかけるのみである。

 

●27日「東西」
関西系と関東系の伝統武術をそれぞれみてきたが、東京においては名目のみは比較的正統な伝統武術がないわけではないが、技法伝という点に関してはそれほど古い部分を残している系統は殆どなく、古式の技法伝と秘儀を見ることはかなり少ない。
対して関西系は古い資料基盤とした正統古伝武術は存外少ないのだが、しかし技法伝という事に関してはかなり古い部分が各地で継承されていたという感がする。伝統空手においても本当に古伝の方式は関東において殆ど見ることがない。これは極めて残念である。関西では各地で不思議な技法伝を細々と継承しているところがあり、極めて奇妙な感がある。やはり本当に古い伝統のあるのは関西系という事かと思われるが、また琉球の武術においては関西経由で古くから宮中と繋がっており、そのような立場からも関西には不思議なものが点在しているようにも感じられる。ここには本当にびっくりするようなものがある! ……しかし現在ではそれも残念ながら途絶して殆ど継承されていないことは極めて遺憾である。

 

●「繋ぎ」

伝統武術よりも格闘技の方が大はやりで、伝統空手なんぞより近代格闘カラテがはやっている。これは不思議な光景であり、何故に古い正法を欣求しないのかという事は不思議ではあるが、一ついえる事は関東系の伝統空手と何とか古伝型を残すばかりで、その型を本当に生かす繋ぎの部分が関東系空手は殆ど欠如しており、これでは確かに伝統派空手に格闘カラテの者が見向きもしないのは当然であるのかも知れない。これは他の古流武術でも同じであり、驚異の実戦錬功法を継承する系統は関東には本当に少ないと感じられる(本当に見ることは出来ない)。

 

●28日「繋ぎの本質」
関東で伝統空手を見ることが多い。型と組手競技の為の稽古は多くなされているが、問題は両者を繋ぐ部分が殆どなく、それぞれ別物として練習されているという問題がある。船越翁は「型は正しく、実戦は別物」という言葉を残したが、現在の問題とはレベルの違う話しだろう。松濤館系は組み手スタンスと型スタンスは何とか共通しているが、他系ではスタンスも型技術とも殆ど異質である。ただ全く違うとは言わない。首里手の極小部分、また泊手の基本の中に現在の自由組手の世界が内蔵されていたことも事実である。一部をクローズアップすることも目的に応じては致し方ないが、別の棄てられた部分の大きさを遺憾に思うのである。

 

●「壺」
霊感商法で安価な壺を高額で売る商売があり、社会的に非難されるが、信者の元アイドル歌手は「大人が納得して買ったものが何が悪いんですか」と噛みついた。これも非常識な話しとしてそのアイドルは流石に干されたが、しかし考えてみれば世に行われなる普通の商売も皆同じようなものであると感じられる。
先般原価3000円ほどかと思われるものを注文して見積もりを取らせたら一万五千円ほどの金額を上げてきた。もっとも別の相場を見ていたので購入する事はなかったがこれでは霊感商法のみを糾弾する事は些か出来にくい。
勿論霊感商法とはその購入を通じて様々な運の好転ありとするまやかしトークで売るものであり、これが問題といえば問題だろう。しかし他の一般商品もその様なまやかしがないかといえば、幸運を呼ぶ云々と云った商品も一般商品の中にも結構ある。ブランド品やイメージ商品なども含め、問題だといえば問題だが確かにこれは各人の自覚の問題だろう。その意味では元アイドルの言葉も首肯できるかも知れない。これからはそのようなまやかし商法が出来ない世になって行かねばならないかと思うが、なかなかに難しい。ましてや武道界は正にイメージと誤魔化し、ハッタリばかりであり、まだまだ混乱は続くだろうかと思われる。

 

●30日「針と糸」
師弟の関係は針と糸……本当にその通りだと思う。先般テレビで「困った親子」と云うテーマの一例として親子で回転寿司に行き、子供に食べた跡の皿を隠させ、料金を誤魔化す馬鹿母親の話しがでていた。勿論困った母親であり、マナーに反する……どころではなく、これは犯罪、いや犯罪どころを遥かに越えて全く人として母親として真に情けなくも最低であると思うのである。単なる窃盗犯罪どころのレベルではなく、子供にその様なずるい生き方を教える事事態が本当に最低の最低である。しかし思うに現在の武道界を見渡すとその様なさもしい事を師匠自らがなし、弟子にもすれを巧妙な生き方として教え導いている例を多々見る事が多い。本当に情けない事であり、また管理人自身も自戒しなければならない事ではあるとは思う。
●「貧しさ」
今日の武道家の殆どがかくもさもしい事の根本的にステータスの低さと貧しさがあるだろう。いやしかし貧しさとズルサは必ずしもダイレクトではなく、それよりも戦後教育の貧困にあるように感じられる。

 

●31日「脅し」
霊感商法は霊がついていると騙し、幸運の壺、もしくは霊払いをしなければ不幸が訪れると脅して売りつけるのであり、普通の商売とは違うという反論があるかも知れない。全ては程度の問題いう事もあるが、根本にあるその事の本質を見なければならないだろう。段級審査を受ける可しと怖い顔で睨むのが脅しではないとはいえないし、開祖のマジックを霊能力の様に喧伝するのも一種の詐欺である。果ては一ランクの昇段や昇級を約する様な講座式教伝で高額の授業料を取りながら最後に至って約事を誤魔化して履行しないのも詐欺であると思う。勿論字句の解釈次第でどんな誤魔化しも出来ない事もないが、かく誤認させる様な約事文を作る事自体が実は詐欺の第一歩なのである。

しかし管理人も約事を護りたいと思いながら自己のだらしなさに由因して出来ない事も多く、また色々な誤魔化しをついなしてしまう事もある。だから誰がどうというよりもお互い努力してなるべく誤魔化しはなさない様に管理人も含めて各自戒めたいと思うのである。


 

EasyMagic Copyright (C) 2003 LantechSoftware Co.,Ltd. All rights reserved.